病院の花桃が咲き終わり、
新緑の季節になりました。

花桃の新緑が爽やかです。

 IMG_4603


つい先日までは、こんな感じ。
木全体が花に包まれていました。
とても華やか。
でも、あっという間に花は散りました。
そして冬には、一気に葉も落ちてしまいます。


IMG_2481

あれだけ華やかだったソメイヨシノも今はこんな状態
IMG_4731





自照列孤明             自を照らす孤明を列し
爲君通一線          君が爲,一線を通ぜん
花謝樹無影              花は謝し樹に影の無し
看時誰不見              看る時に誰か見ざらん    
見不見                     見るや見ざらん
倒騎牛兮入佛殿        倒に騎りて牛と佛殿に入らん


中国の仏教書である「碧巌録」(へきがんろく)からの抜粋です。
花謝の謝は、花が散るという意味です。

自照列孤明:自分の中に内在する光のこと。
爲君通一線:あなたのためにそこに至る道を明らかにしよう
花謝樹無影:満開だった花は散り、葉も落ち、木には何も残っていないように見える
看時誰不見:それと同じように外見からでは、見ようとしても見えないものがある

見不見:見えないものを視なさい。そして、見える見えないに囚われずに、超越しなさい
倒騎牛兮入佛殿:囚われから解放されれば、あたかも逆様に牛に乗って仏殿に入るような外観に囚われない自由自在の境地に至るであろう。自己に内在する光は、このように超越したところに在る。

(ここの解釈は別の読み方もあるようです。
見えないものを見なければ、逆様に牛に乗って仏殿に入るようなとんちんかんな行為になってしまう。というもの。

このブログでは、牛に逆様に乗ることを「目に見える物質世界は幻想」として捉え、そこに囚われない生き方と解釈しています。
何故なら最初の一文の「孤明」は、見えるもの見えないものの超越したもの。「孤明」はすべてを超えたところにあるからです。)




私たちは、桜でも花桃でも、人でも、華やかな時期にだけ関心がいきます。
桜も満開の時には皆が見て、賞賛します。
人も華やかな時期だけ注目を浴びます。
でも、花が散ったら、誰も見向きもしなくなり、人も時期が過ぎれば誰も見向きもしなくなります。
でも、その樹や人の力は、華やかな時期にだけ存在するものではありません。
見えない所で、しっかりと栄養を蓄え、成長する時期、熟成する時期があるのです。

すべてのものは、見た目だけで判断してはいけない。
見えない部分にたいせつなものがある。

これはとても大切なこと。

そして、さらに
見えるものも見えないものも超越する世界がある。

見えるもの、見えないもの、良いもの、悪いもの、光、闇
二極に分けて考えるのは頭。

内在神、自分の中に在る光はそれらを超えたところに在ります。


今日もありがとうございます。
ブログランキング参加中
花謝樹無影のお話が
面白かったらぽちっとしてください。

 
人気ブログランキングへ