死の真相1の続きです。

死の真相1では、私たちの肉体が絶えず微細な死と誕生によって維持されていることを書きました。
死の真相2では、私たちの意識は、つねにこの世とあの世を同時並行して活動していることを書きました。
死の真相3では、死に対する認識によって、生の質も変化することを書きました。

経験したことをコンパクトにまとめるのは容易とは言えず、
充分に伝わったかどうかはわかりませんが、
書き進めます。

予定では
今回PART4では
「死」を正しく、視野を広く見た上で
「生」を充実させる準備。

その次PART5では、
「死」からの解放の方法を予定しています。

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どうして、
死をすべての終りと考えてしまうのでしょう。


結局、
「死」という現象を、すべての終りと考えるのは、
私たちの分離感が原因だと思います。

私のように、
はじめから記憶があれば、
分離感はとても薄いものになります。


自分が、
周りの世界から独立していると信じる分離感から
「死」への恐怖が生まれます。

自分が、
肉体と心と魂が分離して存在するという分離感から、
「死」という概念が強調されてしまいます。

この世とあの世を全く分離した世界と考える分離感から
「死」を特別なものと見なしてしまいます。


でも、
本当は「死」への恐怖とは、
「死」が怖いのではなく、
「生」を失ってしまう恐怖です。

つまり
「死」があることで
「生」がとても大切なものという認識が心の中に刻まれます。





深い瞑想状態では、
すべての分離感が消え、
そこでは
あらゆるものが永遠の今であり、
「死」という概念が意味をなさないものとなります。

でも
その段階に至るまでは、
「生」を無駄にすることの無いよう
「生」の中に没頭できるよう
分離感が必要なのです。



過去の「死」と「誕生」をある程度覚えている経験からいうと、

誕生の時の方が
よっぽど勇気が必要だったように思います。

誕生は、まるで困難な道へと入っていく感じ。
死は、逆に冒険を終えて、家に帰ってきた感じ。
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では、
何故「死」を終わりと考えるように設定されているのでしょう。


それは、
生を全うするための最初のステップ。


例えば、
原稿を書くときには、締切があります。
すると、
締め切りまでの期間に集中して
しっかりと原稿を書き上げます。

もし、
締切が無いと、どうなるのでしょう?
おそらく、
だらだらと書くことになります。
締め切りがないから
集中して仕上げる必要がないからです。

もしくは
いつまでたっても仕上がらないかもしれません。

人は、期限設定の無い仕事には
集中しにくいのです。



人生も、
生まれた時から
必ず死は、必ず設定されています。
死は、
締め切りのような期限です。


期限があるから、
その間に
自分の任務に没頭し
しっかりとやるべきことをやろうとします。



 次の文章は、
江戸時代の禅僧良寛が、大きな地震の後で、
山田杜皐(とこう)へ宛てた手紙の中の一節です。
「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。
死ぬる時節には死ぬがよく候。
これはこれ災難をのがるる妙法にて候。」


江戸中期の禅僧、臨済宗中興の祖である白隠禅師は、
「 死ぬときは死ぬがよい。」


死ぬときは死に、
生きる時は生きる。
つまり
今を十全に生きなさい
というメッセージです。



生きている限り、
誰もが「死」について考えます。

「死」があるから「生」が際立ち、
「死」があるから「生」が貴重なものになる。


「死」と向き合えば、向き合うほどに
「生」は貴重なもの、尊いものへと認識されていきます。


さらに、
誰もが「死」を超えたものについて考え始めます。


もしも、
「死」が設定されていなければ、
人は
「生」を大切にすることもなく、
「生」の真意を探求することも無かったでしょう。

それは、
神を探求することが無いというのと同じこと。


「死」があるから、
「死」を超えた不死なるもの、永遠なるものへの探求心が強まります。

その探求心から宗教が確立され、
「生」を全うするために、ヨガが確立されました。

だから
「死」という区切りは、
「生」を十全に生きるために必要だったのです。


でもまだこれは、
本当の意味での十全に生きるための準備にすぎません。


しかも
一区切り、80~120年という
「生」を全うするための理想的な長さに設定されているのは偶然ではありません。



続きます。



今日もありがとうございます。

 

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