鎌倉の大仏様へ行ってきました。
誰もいない
静かな時間。
大仏さまというと
鎌倉の大仏や奈良の大仏を思い浮かべる人が多いと思います。
中には
日本三大大仏の一つ、
板橋区の東京大仏や
上野大仏という答えもあるかも。
上野大仏は
もはや顔しか残されていません。
でも
かつては
日本一大きな大仏が
京都にあったことは
あまり知られていません。
昭和48年に焼失するまで存在していました。
千手観音で有名な三十三間堂の近くに京都国立博物館があり、
その近くに方広寺があります。
ここに
日本一大きい京都大仏がありました。
大仏殿は高さ約49m、南北約88m、東西約54mという巨大な建築物で、
境内は、現在の方広寺境内では収まらず、
豊国神社、京都国立博物館、妙法院、智積院、三十三間堂をも含む広大な敷地でした。
大仏殿は、
現在、豊国神社が建つ位置にありました。
鎌倉の大仏の高さ(座高)は、11m31cm
奈良の大仏の高さ(座高)は、14m98cm
京都の大仏は、約19m
という日本一の大きさでした。
日本一大きい京都の大仏を造らせたのは
豊臣秀吉です。
秀吉は、刀狩によって
大仏の材料を調達しています。
1595年に方広寺の大仏は完成しましたが
大仏の開眼前に地震で倒壊。
この一報を聞いて
秀吉は激怒したそうです。
1598年の秀吉の死後
同年末に、大仏の無い大仏殿で開眼法要が行われました。
そして
秀吉の後を継いで息子秀頼が、
大仏の再建を行いましたが
1602年、鋳物師の過失により仏像が融解して出火し、
大仏殿は炎上し焼失してしまいました。
大仏殿の再建は1610年から行われ、
1612年に大仏殿と大仏が完成。
1614年には梵鐘が完成、
落慶法要を行おうとしたところ、
梵鐘に刻まれた銘文「国家安康」と「君臣豊楽」について
徳川家康より「不吉な語句」との異議があり、
法要延期が命じられました。
これが、
豊臣家と徳川家の争いに発展していくきっかけなります。
1662年の地震で大仏は破損し、
今度は木造で修復。
1798年には大仏殿に雷が落ち、
本堂・楼門が焼け、木造の大仏も焼失。
その後は同様の規模の大仏および大仏殿が再建されることはなくなりましたが
天保年間に肩より上だけの大仏像と仮殿が再建されました。
それも、
1973年の火災によって焼失してしまいました。
今では、
方広寺大仏殿跡が残され、
その近くには豊臣家衰退の原因となった梵鐘が残っています。
その鐘には
徳川家康を怒らせた
「国家安康」と「君臣豊楽」という2つの言葉が残されています。
Wikipedia
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コメント
コメント一覧
仏像や法具が権力闘争の道具として悪用されるのを阻止したかったのかしら。
梵鐘の碑文に呪詛の意図があったかどうか真相はわかりませんが、もしそうだとしたら、
梵鐘を鳴らす度に家康に対する呪詛が発動し都中に響き渡る仕掛けだったのでしょう。
恐ろしや~
この世の怖いもののたとえとして「地震・雷・火事・親父」とシャレを流行らせたのは
たしか葛飾柴又の寅さんですが、まさかこの歴史をご存じで?(そんな訳ないですね)
先日、東寺に行き五重塔(こちらも4回焼失)を見ながら、昔の人はどうしてこんなに素晴らしいものを作れたのだろうと思い、建造物も美術品も人も退化しているのではないかと考えていたところです。自然と信仰から離れた結果でしょうか。
仏教・密教文化がインドから入ってきたことも改めて感じます。今では日本とインドの文化的な接点は見えなくなっていますが。
京都の大仏さん、秀吉の豪華絢爛な建築だったのかしら。見てみたかったです。