私たちはスマホの普及によって
日常的にカメラを使う習慣ができつつあります。
今日は
カメラが発明されることにとても大きく貢献した人物についてのご紹介です。
アルハゼン。
本名アブー・アリー・アル=ハサン。
西洋では、
アラビア語名のファーストネームのアル・ハッサンを
ラテン語にした「アルハゼン」
という名前で知られています。
ibnalhaytham.com
西暦965年生まれ。
多彩な科学者であり、
主に数学者、天文学者、物理学者、医学者、哲学者、音楽学者として知られています。
歴史上最も偉大な科学者の一人とも言われます。
やはり偉大な科学者であったレオナルド・ダ・ヴィンチよりも
500年も前に生まれています。
特に
アルハゼンの功績としてよく知られているのは
写真技術の基礎原理を発見したことや
レンズの開発に大いに貢献し、眼鏡・顕微鏡・望遠鏡などの開発につながったこと。
物理学史上最も重要な書の一つとされている
「光学の書」を書いています。
この書は
何世紀にもわたって
学者たちに読まれ続けました。
若いころ
アルハゼンは、
当時のエジプトの周期的な洪水と干ばつを防ぎ、
安定した治水を行うために
ナイル川に巨大なダムを建設するという計画を立案しました。
現在のエジプトの治水事業の始まりであるアスワンダムは、
1901年に完成し、
現在のアスワン・ハイ・ダムは
1970年に完成していますが、
それよりも
1000年も前のことです。
当時のエジプトを支配するファーティマ朝の第6代カリフであったハーキムが
アルハゼンの構想を聞いて感心しました。
そして
ダム建設に向けてアルハゼンは、エジプトに呼び出されました。
ところが
ナイル川の規模からは、彼の立案したダム計画は実現が難しいことがわかりました。
もしそれを残忍冷酷で有名だったハーキムに言えば、
処罰どころか処刑されてしまうかもしれないことから
ハーキムが亡くなるまでの11年間、
アルハゼンは精神病のフリを続けて
軟禁状態にされ、
処罰を逃れていました。
この軟禁状態の時にも
さまざまな研究に余念がなかったと言われています。
特に
光に対してよく研究していたようです。
全七巻の「光学の書」も
この時に書かれたものです。
「光学の書」には、
光の性質から、レンズについて、眼の解剖学的特徴や仕組みまでが詳細に書かれ
その後
何世紀にもわたり
各国語に翻訳されました。
ヨーロッパの研究者たちは
光学の書を参考にして
眼鏡や望遠鏡や顕微鏡を開発していきました。
現在のカメラの原理となったカメラ・オブスクラを発明したのも
アハルゼンでした。
wikipedia
アハルゼンの発明から800年経って
1800年代には
カメラ・オブスクラで得た画像を保存するための感光板が取り付けられました。
これが
写真機の誕生です。
写真機は
カメラ・オブスクラにちなんで
「カメラ」と呼ばれるようになりました。
アルハゼンは、
日本ではあまりなじみがないものの、
科学史上最も重要で影響力のある人物の一人とされています。
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今日は
カメラが発明されることにとても大きく貢献した人物についてのご紹介です。
アルハゼン。
本名アブー・アリー・アル=ハサン。
西洋では、
アラビア語名のファーストネームのアル・ハッサンを
ラテン語にした「アルハゼン」
という名前で知られています。

西暦965年生まれ。
多彩な科学者であり、
主に数学者、天文学者、物理学者、医学者、哲学者、音楽学者として知られています。
歴史上最も偉大な科学者の一人とも言われます。
やはり偉大な科学者であったレオナルド・ダ・ヴィンチよりも
500年も前に生まれています。
特に
アルハゼンの功績としてよく知られているのは
写真技術の基礎原理を発見したことや
レンズの開発に大いに貢献し、眼鏡・顕微鏡・望遠鏡などの開発につながったこと。
物理学史上最も重要な書の一つとされている
「光学の書」を書いています。
この書は
何世紀にもわたって
学者たちに読まれ続けました。
若いころ
アルハゼンは、
当時のエジプトの周期的な洪水と干ばつを防ぎ、
安定した治水を行うために
ナイル川に巨大なダムを建設するという計画を立案しました。
現在のエジプトの治水事業の始まりであるアスワンダムは、
1901年に完成し、
現在のアスワン・ハイ・ダムは
1970年に完成していますが、
それよりも
1000年も前のことです。
当時のエジプトを支配するファーティマ朝の第6代カリフであったハーキムが
アルハゼンの構想を聞いて感心しました。
そして
ダム建設に向けてアルハゼンは、エジプトに呼び出されました。
ところが
ナイル川の規模からは、彼の立案したダム計画は実現が難しいことがわかりました。
もしそれを残忍冷酷で有名だったハーキムに言えば、
処罰どころか処刑されてしまうかもしれないことから
ハーキムが亡くなるまでの11年間、
アルハゼンは精神病のフリを続けて
軟禁状態にされ、
処罰を逃れていました。
この軟禁状態の時にも
さまざまな研究に余念がなかったと言われています。
特に
光に対してよく研究していたようです。
全七巻の「光学の書」も
この時に書かれたものです。
「光学の書」には、
光の性質から、レンズについて、眼の解剖学的特徴や仕組みまでが詳細に書かれ
その後
何世紀にもわたり
各国語に翻訳されました。
ヨーロッパの研究者たちは
光学の書を参考にして
眼鏡や望遠鏡や顕微鏡を開発していきました。
現在のカメラの原理となったカメラ・オブスクラを発明したのも
アハルゼンでした。

アハルゼンの発明から800年経って
1800年代には
カメラ・オブスクラで得た画像を保存するための感光板が取り付けられました。
これが
写真機の誕生です。
写真機は
カメラ・オブスクラにちなんで
「カメラ」と呼ばれるようになりました。
アルハゼンは、
日本ではあまりなじみがないものの、
科学史上最も重要で影響力のある人物の一人とされています。
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