生涯で4000人の女性たちを抱き、30億円もの大金を女性に貢いだという
紀州のドン・ファンと呼ばれた資産家の男性の急死が話題のようです。


55才年下の女性と結婚してから
わずか三ヶ月。

その遺体からは
大量の覚醒剤成分が検出され、
事件性が取り沙汰されています。

彼が急死する前には
愛犬のイブちゃんも同じように苦しんで急死。

やはり何歳になっても
若い女性が傍らにいて欲しいものでしょうか。

人生最後の結婚も
あまり幸せなものではなかったようです。





私の知り合いの医師の先生が
ある週刊誌のインタビューに出ていました。

雑誌の記事
「最後は若い看護師さんの胸の谷間に顔を埋めて死にたい。」
というような見出しでした。
きっとオフレコのように喋ったであろうこの会話が
見出しになるとは・・。

高齢でも
精力的に仕事をして
精力的に勉強を続ける尊敬する先生です。

歳をとっても全く優秀な頭脳が衰えない。




そんな話が続いて
江戸時代後期の曹洞宗のお坊さん
良寛の話を思い出しました。

mainvis_002出典:良寛記念館



良寛は
お坊さんでありながら、
歌人であり、書道家でもあり、
素晴らしい作品を世に残しています。


そしてやはり晩年は
若い女性と共に過ごして
亡くなったお坊さんです。


良寛は
越後国(現・新潟県)の名主の長男にもかかわらず
後をつぐことなく
一族の反対を押し切って
僧侶になりました。


良寛34歳の時
修行の師である国仙和尚の世を去る前の最後の言葉
「好きなように自由に旅をするが良い」
に従い、
諸国を巡り始めました。


48歳の時、
越後国の国上寺で書を書を学び始めました。

その国上で
農家から譲り受けた質素な五合庵に落ち着き、
夏の虫や冬の寒さを耐えながら
ここで自由気ままな生活を送っていました。


61歳の時、
五合庵の階段の上り下りが厳しくなり
乙子神社境内に草庵を作り
そこで暮らし始めました。

70歳になると、
お金持ちであった木村元右衛門邸内に庵を作ってもらい
生活を始めています。

ここに移住してから、
若くとても美しい30歳の尼僧である貞心尼が庵を訪れるようになりました。
彼女の美しさは
いろいろな記録に残っています。

貞心尼は
長岡藩奉行組士であった奥村五郎兵衛の次女で、
小さなころから才女であったとされ、
一度は漢方医と結婚したものの
離縁して実家へ戻り、
良寛の元を訪れました。

ところがなかなか
タイミングが悪く良寛には会えず
ついに会い、
最終的には
弟子となります。


はじめてあひ見奉りて              貞心尼

君にかく
あひ見ることのうれしさも
まださめやらぬ
夢かとぞ思ふ
御かへし                    良寛

それから
お互いに恋愛感情が芽生えていきました。


73歳の夏、
良寛は
ひどい下痢とお腹の痛みが始まります。

冬には病状はさらに悪化し、
翌年1月6日、
良寛は貞心尼に看取られながら74年の生涯を閉じました。

その最期を
「師、病中さのみ御なやみもなく、ねむるが如く座化し玉ひ」
と貞心尼は記しています。

良寛自身は、
後世に名を残す気は全く無かったようなのですが、
愛弟子であった愛する貞心尼が
良寛のために歌集「蓮(はちす)の露」を編纂することに尽力し、
良寛の作品を後世に残しました。


その41年後に
貞心尼は老衰で亡くなりました。

main_img出典:良寛の里わしま





紀州の資産家の男性は
自ら若い女性を求めて
あまりよい晩年とはなりませんでした。


一方で
良寛は
自らは女性を求めることなく
若い女性の方からの気持ちを受けて
よい晩年となりました。


そして
私の知り合いの先生も
やはり
自らは女性を求めることなく
あるがままで自由に生きています。


若い男性以外は
自ら女性を求めるのは
セクハラ・パワハラにしかならず
ロクなことはないと思います。



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