再掲です。
クアナ・パーカー。
wikipedia
クァハディ・コマンチェ族最後の酋長です。
クアナ・パーカーは、
コマンチェ族インディアン酋長ペタ・ノコナと
ヨーロッパ系アメリカ人女性シンシア・アン・パーカーとの間にもうけられた息子です。
クアナ・パーカーの母、シンシア・アン・パーカーは、
1830年代にテキサス東部に一家で入植した白人女性です。
1836年5月、シンシアが9歳の時に
今日のテキサス州に位置するパーカー砦へ襲撃してきたコマンチェ族によって
抵抗した白人入植者は全滅。
シンシアを含む残された女子供たちは、先住民によって捕らわれました。
Youtube
そして
シンシアは、
コマンチェ族ナコナ・バンドに養われた後、
コマンチェ族戦士と結婚し
最初に生まれた息子がクアナでした。
その後
クアナの弟ペコスと妹トプサナが生まれました。
1860年、
長男クアナが15歳の時に
白人部隊がコマンチェ族の部落を襲撃してきました。
クアナを含む男たちの多くは狩りに出ていて、
戻ってきた時には部落に残っていた男は殺され
母シンシアと妹トプサナは白人に連れ去られていました。
母シンシアは、
元の実家であるパーカー家に戻されたものの、
コマンチェ族の元に戻してくれるよう繰り返し家族に要求し
部族への帰還を試みましたが、
先住民の元へ戻ることなど許可されることはありませんでした。
そして
妹トプサナが
1863年に病気で死亡。
悲しみにくれた母シンシアは、
コマンチェ族へ戻れないことを理解すると
部族に戻れるまで食事をとらないことを宣言。
死を決意して断食に入り、
そのまま餓死してしまいました。
母と妹を奪われて失ったクアナは
その後、
父と弟も亡くし
天涯孤独の身となりました。
そのころ
コマンチェ族も白人との戦いに疲れ、
これ以上犠牲を出したくないとの考えから
和平への道を探りだします。
1867年に白人と4つの先住民部族との和平交渉が開かれました。
その会談の内容とは、
先住民族たちは自分たちの住む土地をすみやかに明け渡して、保留地へと移住すること
という白人側の一方的で理不尽な要求でした。
各部族は
これ以上の犠牲者を出したくないために
保留地へ行くことを選びました。
でも
クアナが属するクァハディ・コマンチェ族だけは
この会談を無視。
クアナは、
「白人の酋長に伝えろ。クァハディは戦士だ。死ぬまで戦い抜く。」
と宣言しています。
pinterst
クアナが率いる戦士たちは
白人たちに攻撃を続け
それに対抗して
合衆国は
最も容赦なく先住民族を攻撃するマッケンジー大佐率いる第四騎兵隊で対抗してきました。
お互いに殺し合う
壮絶な戦いが繰り返されました。
この間に
合衆国は西部にまで鉄道を延長し、
白人ハンターたちが次々と流入してきました。
白人ハンターたちは、
先住民族の生活の糧であったバッファローを
先住民へのいやがらせのために
無差別に撃ち殺していきました。
合衆国政府も、
白人ハンターたちにバッファローの無差別殺戮を奨励していました。
この写真の山は
殺したバッファローの皮です。
texasbeyondhistory.net
それによって先住民族は生活できなくなるからです。
先住民たちは
住まいであるティーピーも
衣類も
食料も
さまざまな生活物資を
バッファローに依存していたのです。
.sd4history.com
このあまりに悲惨なバッファローの無差別殺戮を阻止するために
クァハディ・コマンチェ族をはじめ
カイオワ族、
アラパホ族、
シャイアン族
が集まりました。
そして話し合いで
クアナが戦いのリーダーに選出されます。
Youtube
そして最初に白人ハンターが集まる交易所を襲撃することになります。
白人たちはこれを察知して
長距離ライフルで応戦。
戦士たちの先頭にいたクアナは
銃撃をうけて負傷します。
つぎには
白人たちの拠点を次々と襲撃していきます。
合衆国政府は、これに対抗して軍隊の大部隊を派遣。
.legendsofamerica.com
でも優れた機動力を持つ先住民の戦士たちに追いつくことは出来ませんでした。
ついに
合衆国の軍隊は、
数か月後に先住民たちのキャンプ地を発見。
奇襲攻撃を仕掛けました。
先住民たちはうまく逃げたものの、
政府軍は
残された先住民戦士たちのティーピーも生活用品も
すべて焼き払い
さらに
先住民たちが保有する馬500頭をすべて射殺。
これによって
厳しい冬の環境で
馬も食料も無い戦士たちは次々と降伏。
最後に翌年春になって
クアナ率いるクァハディ・コマンチェ族も降伏しました。
合衆国は戦いの責任者たちを処罰として監禁。
特に悲惨だったのはカイオワ族で
ローン・ウルフ酋長は1879年に監禁先で病死。
ホワイト・ベアー酋長は、1878年に監禁先で自殺。
さらに
生き残った酋長も毒殺されてしまいました。
これで
カイオワ族は事実上壊滅。
保留地に幽閉された各部族の酋長は、
すべての意志を削がれて、
指導力を失っていきましたが、
クアナは、
保留地においても精力的に部族の活性化のために尽力しました。
そして
酋長としての誇りを保ち続けたのです。
やがて
クアナを嫌っていた白人たちも
親しみをこめてクアナの名を呼ぶようになりました。
クアナは、
亡き母シンシアの実家も訪問し、
母親の墓参りも果たしました。
先住民は、
幼少の頃と成人してからは名前を変えるのが通例でしたが、
クアナ・パーカーは、
母親に尊敬の気持ちをこめて
母が名付けた名前で一生を過ごしました。
クアナは、
1911年に肺炎で死亡。
クアナは最後まで酋長としての誇りを保ち続け
人々に希望と光を与え続けました。
任運騰騰 (にんぬんとうとう)
という言葉があります。
任運とは、自我を捨てて、あるがままを受け入れて
運を天に任せるさまをいいます。
どんな状況にあっても、それを嘆くことなく、そこから学び、
今できることに全力を尽くす。
未来のことは、憂いでいるよりも、天に任せておけばよい。
騰騰とは、制限なく自由に、気高く生きることをいいます。
クアナは
どんな逆境にあっても、
その状況を嘆くよりは
つねに気高く、できることを力の限り行い続けた酋長でした。
私たちも生きている限りは
誰でもたくさんの逆境に遭遇します。
その時に、
クアナのように常に志高く持ち、
「今」を全力で生きることが
理想的な生き方なのでしょう。
私たちは
普段から気高い生き方を選択しているでしょうか?
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クアナ・パーカー。

クァハディ・コマンチェ族最後の酋長です。
クアナ・パーカーは、
コマンチェ族インディアン酋長ペタ・ノコナと
ヨーロッパ系アメリカ人女性シンシア・アン・パーカーとの間にもうけられた息子です。
クアナ・パーカーの母、シンシア・アン・パーカーは、
1830年代にテキサス東部に一家で入植した白人女性です。
1836年5月、シンシアが9歳の時に
今日のテキサス州に位置するパーカー砦へ襲撃してきたコマンチェ族によって
抵抗した白人入植者は全滅。
シンシアを含む残された女子供たちは、先住民によって捕らわれました。

そして
シンシアは、
コマンチェ族ナコナ・バンドに養われた後、
コマンチェ族戦士と結婚し
最初に生まれた息子がクアナでした。
その後
クアナの弟ペコスと妹トプサナが生まれました。
1860年、
長男クアナが15歳の時に
白人部隊がコマンチェ族の部落を襲撃してきました。
クアナを含む男たちの多くは狩りに出ていて、
戻ってきた時には部落に残っていた男は殺され
母シンシアと妹トプサナは白人に連れ去られていました。
母シンシアは、
元の実家であるパーカー家に戻されたものの、
コマンチェ族の元に戻してくれるよう繰り返し家族に要求し
部族への帰還を試みましたが、
先住民の元へ戻ることなど許可されることはありませんでした。
そして
妹トプサナが
1863年に病気で死亡。
悲しみにくれた母シンシアは、
コマンチェ族へ戻れないことを理解すると
部族に戻れるまで食事をとらないことを宣言。
死を決意して断食に入り、
そのまま餓死してしまいました。
母と妹を奪われて失ったクアナは
その後、
父と弟も亡くし
天涯孤独の身となりました。
そのころ
コマンチェ族も白人との戦いに疲れ、
これ以上犠牲を出したくないとの考えから
和平への道を探りだします。
1867年に白人と4つの先住民部族との和平交渉が開かれました。
その会談の内容とは、
先住民族たちは自分たちの住む土地をすみやかに明け渡して、保留地へと移住すること
という白人側の一方的で理不尽な要求でした。
各部族は
これ以上の犠牲者を出したくないために
保留地へ行くことを選びました。
でも
クアナが属するクァハディ・コマンチェ族だけは
この会談を無視。
クアナは、
「白人の酋長に伝えろ。クァハディは戦士だ。死ぬまで戦い抜く。」
と宣言しています。

クアナが率いる戦士たちは
白人たちに攻撃を続け
それに対抗して
合衆国は
最も容赦なく先住民族を攻撃するマッケンジー大佐率いる第四騎兵隊で対抗してきました。
お互いに殺し合う
壮絶な戦いが繰り返されました。
この間に
合衆国は西部にまで鉄道を延長し、
白人ハンターたちが次々と流入してきました。
白人ハンターたちは、
先住民族の生活の糧であったバッファローを
先住民へのいやがらせのために
無差別に撃ち殺していきました。
合衆国政府も、
白人ハンターたちにバッファローの無差別殺戮を奨励していました。
この写真の山は
殺したバッファローの皮です。

それによって先住民族は生活できなくなるからです。
先住民たちは
住まいであるティーピーも
衣類も
食料も
さまざまな生活物資を
バッファローに依存していたのです。

このあまりに悲惨なバッファローの無差別殺戮を阻止するために
クァハディ・コマンチェ族をはじめ
カイオワ族、
アラパホ族、
シャイアン族
が集まりました。
そして話し合いで
クアナが戦いのリーダーに選出されます。

そして最初に白人ハンターが集まる交易所を襲撃することになります。
白人たちはこれを察知して
長距離ライフルで応戦。
戦士たちの先頭にいたクアナは
銃撃をうけて負傷します。
つぎには
白人たちの拠点を次々と襲撃していきます。
合衆国政府は、これに対抗して軍隊の大部隊を派遣。

でも優れた機動力を持つ先住民の戦士たちに追いつくことは出来ませんでした。
ついに
合衆国の軍隊は、
数か月後に先住民たちのキャンプ地を発見。
奇襲攻撃を仕掛けました。
先住民たちはうまく逃げたものの、
政府軍は
残された先住民戦士たちのティーピーも生活用品も
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さらに
先住民たちが保有する馬500頭をすべて射殺。
これによって
厳しい冬の環境で
馬も食料も無い戦士たちは次々と降伏。
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クアナ率いるクァハディ・コマンチェ族も降伏しました。
合衆国は戦いの責任者たちを処罰として監禁。
特に悲惨だったのはカイオワ族で
ローン・ウルフ酋長は1879年に監禁先で病死。
ホワイト・ベアー酋長は、1878年に監禁先で自殺。
さらに
生き残った酋長も毒殺されてしまいました。
これで
カイオワ族は事実上壊滅。
保留地に幽閉された各部族の酋長は、
すべての意志を削がれて、
指導力を失っていきましたが、
クアナは、
保留地においても精力的に部族の活性化のために尽力しました。
そして
酋長としての誇りを保ち続けたのです。
やがて
クアナを嫌っていた白人たちも
親しみをこめてクアナの名を呼ぶようになりました。
クアナは、
亡き母シンシアの実家も訪問し、
母親の墓参りも果たしました。
先住民は、
幼少の頃と成人してからは名前を変えるのが通例でしたが、
クアナ・パーカーは、
母親に尊敬の気持ちをこめて
母が名付けた名前で一生を過ごしました。
クアナは、
1911年に肺炎で死亡。
彼の死後、
彼の偉業に敬意を表して
彼の偉業に敬意を表して
クァハディ・コマンチェ族では誰も酋長と名乗らなくなりました。
クアナは最後まで酋長としての誇りを保ち続け
人々に希望と光を与え続けました。
任運騰騰 (にんぬんとうとう)
という言葉があります。
任運とは、自我を捨てて、あるがままを受け入れて
運を天に任せるさまをいいます。
どんな状況にあっても、それを嘆くことなく、そこから学び、
今できることに全力を尽くす。
未来のことは、憂いでいるよりも、天に任せておけばよい。
騰騰とは、制限なく自由に、気高く生きることをいいます。
クアナは
どんな逆境にあっても、
その状況を嘆くよりは
つねに気高く、できることを力の限り行い続けた酋長でした。
私たちも生きている限りは
誰でもたくさんの逆境に遭遇します。
その時に、
クアナのように常に志高く持ち、
「今」を全力で生きることが
理想的な生き方なのでしょう。
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コメント
コメント一覧
格別、座右の銘というものを持たなかった私ですが、素敵な言葉に出会えてうれしいです。
今朝の記事を読んでいて、自分の胸の中にもロウソクの火のように灯りがともっていることに気付きました。不思議な感覚。
全く関係ないお話ですが、昨日お店にはじめてお見掛けするお客様がいらっしゃいました。
男性ですが、正直国籍不明なお顔立ち。
寡黙なその方は、一見怖そうですが、お話を始めると紳士的。印象深い方だなぁ…と思ってたら…クアナしゅう長にそっくりでびっくりしました(笑)
今度また来店されたら、話しかけてみよう。
先生、今朝の問いかけと言葉を忘れずに
今日を丁寧に生きます。
ありがとうございます。
いつもありがとうございます。お店が近ければ行ってみたいです。
武器を取ることではなく武器を作らないことかもしれないと、今、ふと思いました。
そうしたら、天も味方するのかもしれないと…
太古から戦いを繰り返して生み出したものは、とてつもない兵器と憎悪と悲しみでしかありません。それをもっと進化させ次世代に受け継がせようとしている人間は愚かですね。自分の愛する人を戦場に送り込みたいと思う人は誰もいないのに…
先生の魂は純粋な愛の塊ですね。そんな先生にとって、今の世に生きるのは大変なのでしょうか、それとも、しあわせなのでしょうか…ちょっと知りたい気がします(笑)
いつも学びのブログをありがとうございます。
うれしいお言葉、ありがとうございます!
私も体調の悪いときは、森井先生に診察していただきたいです。
お話を聞くだけて完治しそうです。
いつもありがとうございます。
先生は優秀な酋長だったのでしょうね。
でも、西部劇というもの、あまり見てません。事情、背景がわかってきました。
植物や動物を兄弟と呼び、川を流れる水、風にそよぐ葉の声を聞き、自然と共に生きていた人達。森井先生の、ネイティブアメリカンの記事は何度呼んでも心を動かされます。
ありがとうございます。