新刊
「神理の扉 聖なる変容と霊性進化の道」
光田秀先生&森井啓二著
きれいねっと出版から
予約開始しました。


予約は
こちらから


本書は、
エドガー・ケイシー研究の第一人者であり
日本エドガーケイシーセンターの創始者である光田秀先生と私の対談を記録した書籍です。


私の尊敬する素晴らしい光田 秀先生
プロフィールはこちら。

 昭和33年、広島県生まれ。京都大学工学部卒業。
20歳の頃、エドガー・ケイシーの『転生の秘密』(たま出版)を読み、
霊的人生観に目覚める。
京都大学大学院修了後、政府研究機関にて4年間勤務。
以後エドガー・ケイシーを中心に、霊的哲理の研究・翻訳・執筆、講演に専心。
現在、エドガー・ケイシーの世界的権威の一人であり、
NPO法人日本エドガー・ケイシーセンター会長。

主な著訳書に、
『眠れる予言者エドガー・ケイシー』(総合法令)、『キリストの秘密』、『神の探求』(たま出版)、『賢者たちのメッセージ』(PHP研究所)、『エドガー・ケイシーのすべて』(サンマーク)、『エドガー・ケイシーの超リーディング』『エドガー・ケイシー療法のすべて』(ヒカルランド)などがあります。

プロフィールには表現できない天才です。
しかも
すごい努力家でもあります。

だからこれだけのことを成し遂げてきたのでしょう。






目次の一部を抜粋すると、
ケイシーリーディングが示した「ヨハネの黙示録」
・「黙示録」を霊的に深く読み解く
・「黙示録」が難解である理由
・ケイシーを通してバガヴァッド・ギーターを学ぶ

など興味深い内容が語られています。



「新約聖書」の最後の「ヨハネの黙示録」。

「ヨハネの黙示録」は、
表面上は
古代キリスト教の小アジアの七つの主要な教会に向けた書簡という形をとっていますが、
実際には、
人体が聖なるものへと変容する時の様子が記載されています。



驚くほど正確なケイシーのリーディング中には、
黙示録を書いたヨハネ本人が出てきて、
自ら黙示録を解説するという記録も残されています。


ケイシーが
最初に黙示録について言及したのは
医師に向けてある患者を治療するのであればヨハネの黙示録で人体について学びなさい
という指示だったのです。


そして
ヨハネの黙示録を読み解いていく上で
旧約聖書の創世記を読むと良いことも知られています。


今回の「神理の扉」では
紙面の都合上、創世記の部分は収録できませんでした。


そこで、
創世記の最初の部分を
私が読み解いてここに記しておきます。



これに光田先生の
ケイシーリーディングの叡智を加えたら
立体的に理解が深まるのではないかと期待しています。

それはまたどこかで機会があれば。




今回は、
旧約聖書の
アダムとイブの導入部分を読み解きます。



旧約聖書の創世記を深く読みこなしていると、
黙示録も
より深く理解できるのです。


聖書を
人間の体の仕組みから創造主との合一までの変容を記録した書であると
読み解いた人は少なかったのではないかと思います。


君が代もそうでした。

君が代は、より東洋的な手法を使っています。
つまり、
君が代の三十二文字を道標に
瞑想から普遍意識へと向かいながら読み解いていくものだからです。

聖書は、より西洋的。
さまざまなシンボルを駆使して
暗号解読のように進んでいけます。


bible-Sunlight womenoffaith.com


旧約聖書も
深い真理を
暗号のように盛り込んで書かれています。





以下は、拙著「君が代から神が代へ」
からの引用抜粋です。

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旧約聖書の中の
「アダムとイブ」からの一節の解読


アダムとイブの話は、
聖書の中でも最も有名な話の一つです。

旧約聖書「創世記」に書かれています。
 

この物語を、
文章で解説することは、
感動的な長編小説を三行にまとめなさいと言われているようなもの。

 

それだけ多くの意味が、
二重三重に、
とても巧みに組み合わされています。

 

今日はその中から、
比較的理解しやすい一面をご紹介しましょう。

 

 

「神は天地を創造し、最後に自分を型どって、土で人(アダム)を作った。

神はアダムを深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。 

神はアダムから取ったあばら骨でひとりの女を造り、アダムのところへ連れてこられた。

 


神は
アダムを土から作った。



アダムとは

ヘブライ語で「土」と「人間」
の2つの意味を持つ言葉に由来しています。

 
 

土は、
天の神と、
大地の人
を象徴します。


アダムの肉体(土)は
母なる大地の素材で作られ、
そこに神が息を入れて
アダムは地上での生命を得たと言われています。

生命(息)は
父なる神に由来するエネルギー。



話がそれますが、
土で作った肉体が
最初の呼吸をしたのは
神によるものであるということは
後で
とても大きな意味を持つことになります。


神に近い波動の高い領域へと戻るのであれば、
呼吸の在り方が
つまり
呼吸と呼吸の間のほんのわずかな呼吸の無い瞬間、
これが
とても重要な要素となってきます。





地上に降りてきたばかりの頃のアダムはまだ、

神からはまだ乖離していない、
神に近い存在です。

地上の素材で作りながらも、
神の属性をすべて備えています。


(神というのは、 
多くの人が人格化してしまうように
誤解を招きやすい表現だと思います。

ここでは、
宇宙全体に偏在する最も精妙で時空を超えた純粋意識としておきます。)

 


 

アダムに続いて、

神は、
アダムの肋骨からイブを作った。

 

イブは
ヘブライ語の「生きる者」「生命」の意味であるハヴァに由来します。

 
 

アダムの肋骨から作った理由は、

ハートのチャクラに最も近く

ハートを守っている部分だから

そして
呼吸に必要な骨、
つまり
地上に生命をもたらすために必要だという象徴的な部分だから
です。
 
 

これが
人の中の女性性の特徴になりました。

 

どんな人でも
自分の中に男性性と女性性の両方を兼ね備えています。
アダムからイブを作ることで
それを象徴しています。

 
 


肋骨は、

呼吸を司る十二対の骨です。




(余談ですが、
聖書では数字にも大きな意味が隠されています。
脊椎三十三のうちも、肋骨十二対も・・

例えば、
聖書には、「七つの封印された巻物」が出てきますが、
これは
創造主から発したエネルギーと意識
つまり
五つの元素と二つの意識(感覚意識と知性・理性)
を示しています。

これらは、
特定の波動領域においては
七つの虹のように見えますので
このように表現できるのです。

人の進化の過程においても
チャクラと呼ばれる七つの幽体中枢に各々霊光を見ることができます。

これは
ヨハネの黙示録にも
「あなたがわたしの右手に見た七つの星と七つの金の燭台との奥義は、こうである。すなわち、七つの星は七つの教会の御使であり、七つの燭台は七つの教会である」(第一章20)。
「右の手に七つの星を持つ者、七つの金の燭台の中央を歩く者が・・・」(第二章1)。
などと隠喩的表現で記載されています。



同じ数字にも
読み手の段階に応じて
二重三重に意味が重なり合い、


解読者が、
一定の霊的進化を遂げた段階に来ると初めて
読み解くことが可能となります。)




話を戻しましょう。


私たちは食事なしでも少なくとも数週間生きられます。
人によってはさらに長く生きられます。
水が無くても、ある期間は生きられます。

でも
呼吸無しでは
地上に留まることは出来ません。


そのため
肋骨は 

物質世界へ生命を取り入れる役割という意味も持ち、

生命エネルギーの象徴でもあります。


物質世界へ生命を取り入れることは女性にしかできません。

 

 

だから、

肋骨から作った人は、イブ(生命)と呼ばれました。


肋骨がなければ

地上で生きていくことは不可能です。



男性は、
女性と別れた時には、

心に大きく穴が空いたように感じ、
生命力も衰え 
いつまでもくよくよとしながら 

大きな悲痛を伴いがちです。

男性は
頭脳中心になりがちで
過去をいつまでも引きずる傾向があります。


一方で
女性は、
男性と別れた後には
心を切り替えて
独立して生きていく力を持っています。 



それは、
女性が
男性よりも
ハートと呼吸(生命エネルギー)に
より直結し
「今」を生きているからです。 



それが
イブが肋骨から作られたという象徴で示されています。

 

 

 

神は、
アダムからイブを分離して作ることで
この世界を二元性の幻想の中に置くことにして、

より魂の進化を促そうとしたともいえます。




より上の波動領域へ移行するためには、
イブに象徴される女性性の直感が
必要になります。


ハートや直観が主体の場合には、
智慧の世界へと飛躍しやすいからです。


一方で
知識だけからでは
ハートと直観なしに智慧へと飛躍することは困難です。 



 

 

アダムは男性性の象徴であり、
表在意識を表しています。

 

アダムから肋骨の一部を切り取ることによって
ハートのチャクラの力を少し取り除いた形で現れた男性性は、
 

外側の世界に意識を向けて好奇心旺盛であり、

攻撃性や支配性も優位になり、

人々の権力争いや自然界に対する征服欲も旺盛で、

その結果が今の世界情勢に表れています。
 

男性性に見られる攻撃性は、
ハートの愛よりも
頭の知識を優先し、
すべてのものを探求する、
侵入するような行動でも示されます。
 

槍もミサイルもロケットも
男性性が的確に表れている発明品です。
 

それが
現代科学の頭脳を中心とした発展や戦争となって表れています。

 

 

一方、
イブは女性性、
内面の意識を象徴しています。

 

それは、
アダムに表れている男性性を、
視えない形で優しく創造性や積極性へと変容させる力を持っています。

 

ハートのチャクラの力の影響が出ています。

イブは、
物質世界に生命エネルギーを取り入れる肋骨から作られているため
子供を産む役割も担っています。


アダムとイブが一つから作られたように
再び
神へと戻るための
霊性の進化の道には、


強い男性性の推進力と探求心、
それに
愛を加えて光の方向へ向かわせる女性性のバランスが必要なのです。

 

 

男性性と女性性が対等の両極関係にあると、
誤解されている人が多いのですが、
それであれば
アダムの肋骨からイブを作らずに
アダムを二分割すればいいだけの話です。



このハートのチャクラの近くの肋骨から作られたという表現は、
とても的確に
男性性と女性性の役割を示しています。





 

 

アダムとイブは
二人で
地上に降り立った一人の完全な人間を表しています。




 

だから、
神はイブを新たな素材で作ることなく、
アダムの肋骨から作りました。

 

魂の進化の初期過程で
このように極性が分離され、

再び融合する過程を辿ることは、

ある意味最も強力に
魂を進化させる方法だともいえます。

 



神は、アダムの住むエデンの園に、実の成る木々を創造し、あらゆる種類の木がありました。

そしてエデンの園の中央には、2本の木を創りました。

1本は生命の木、

1本は善悪を知る知識の木。

 

神は「この園にある全ての樹の実を食べても良いが、園の中央に植わっている、善悪の知識の木の実だけは決して食べてはならない。その実を食べると死ぬであろう。」と言いました。

  

adam-och-evabjorkbloggen.com
 


 

命の木の実は食べていいけれど、

善悪の知識の木の実は食べてはいけない。

 
 

神が言った「その実を食べたら死ぬであろう」というのは、

「霊的な死」を意味します

 

 

魂の活動は
神の創造した宇宙の摂理と調和しているのですが、
 

「知識の実を食べて」
人の魂が自分の能力に対する興味が徐々に強まることにより、

自ら神の意志から逸脱するようになってしまう、

霊性・神性を失うことを象徴しています。

 


それは何故でしょう?



知識は、
「一なるもの」から分離させる道具となるからです。


 

知識は

存在そのものを
主客分離させます。



善悪の知識の「善悪」は
地上世界における二元性の象徴として使われています。


善と悪
光と闇
愛と憎悪
生と死
過去と未来


すべての二元性は
真理に根差したものではなく
自我の歪みで形成された幻影です。
 
例えば、
愛の最も低い表現が憎悪であり、
光の不在が闇であり、
生と死は魂の表現形態の移行であり、
一見両極に見えて対立するものでも、
本質的には一つです。

 
でも、 

知識によって

見る対象と自分の分離が始まります。

 

すべてのものを分離していく作業、
それは知識から起こるのです。



頭の知識は

「全体が一つとして在る」ことから
分裂する方向へと向かわせます。



 

 

全体を一つとして在るためには、
本来、 

知識ではなく

智慧を使うべきなのです。



美しいご来光を眺めているときに
ただその状態の美を
そのままハートで受け止めます。



もし、知識が介入したら、
太陽と地球の自転速度や
太陽光のスペクトラムと空気の関係など
頭で考えながら眺めたら、

本当のご来光を見逃すことになります。




美味しいイチゴを
ビタミンCだから食べようなどと考えたら、
本当のイチゴそのものの全体像を見逃すことになります。




知識が中心の科学では、
万物万象を分類、解剖、成分分析、数値化することで理解しますが、

それが
存在の背後にある本質を見失い、
人と自然が分離する要因ともなっています。


頭で理解すると同時に、
存在そのものを心と体で理解することも大切なのです。


いくら人を解剖しても
バラバラにした肉体の中には
生命力や理性は見つけることはできません。




知識は
いつも偏見に囚われています。
それは完全なものではないからです。




もちろん
科学の発展が
インスピレーションによって支えられていることを理解する優れた研究者は
たくさんいます。

 

 
 

知識は、低い次元の道具として活用され、
 

智慧は、高い次元へ昇華するための道具として活用されます。
 
 

 

「命の木の実は、無意識領域の栄養となります。」

 

「知識の木の実は、顕在意識領域の栄養となります。」
 
 

「智慧の木の実は、高次元にとどまり、地上には下りてきませんが、普遍意識領域の栄養になります。」

 

 

 

人は、
ある条件が整えば、

無意識領域の本能から
普遍意識の智慧・直観へと
跳躍することは
可能です。 


でも、
顕在意識の知識から
普遍意識の直観へと
直接跳躍することは
不可能です。



 
アダムとイブが地上に降りて
知識の実を食べるまでの話は、
別の表現法を使うと
次のようになります。

 

はるか昔
人がまだ地上にいない頃、
物理的宇宙で展開される生命現象を
霊的次元から興味深く観察していた魂たちは、 

地上での現象に引き寄せられていき、

好奇心旺盛な一群の魂が、
物質次元に降下していきました。
 
 

そして

長い間に
魂は人間として物質界で活動する内に、

地上の引力に引かれるままに

自我意識が強まることで神から離れていき、

その神性を失っていきました。

 
 

これは人間自身が自ら招いた状態であり、
この状態にある原因は人間の神性の欠如ではありません。
 

人はその奥に内在する神性を持ちながら、
自ら悟りを目指す意志を
知識で増強された自我によって覆い隠してしまったのです。
 

 

この二元性の世界を形成する地上においては、

魂の進化を早めるための修行には良い場となってきました。
 

しかしながらその反面、

独特かつ強力な磁場が障壁となり、
 

そこから抜け出し、

本来の意識状態に戻っていくことは容易ではありません。

 


 

 

善悪の知識の木には、
とても美味しそうな果実が実り、
これはリンゴまたはイチジクであったと言われています。

いずれにしても
象徴的な意味で書かれています。
 

リンゴは、
ラテン語の罪悪malumとリンゴma’lumの両方が、
どちらもmalumと表記される(発音は若干異なります)ことから、
それを多国語へと訳される過程で、
罪悪の実からリンゴの実へと変わっていったようです。

 

古くからの話では、
イチジクの実で描写されたものが多く見られます。



イチジクの実は、
とても誤解されている果物の一つです。

この植物は、
アラビア半島南部から地中海沿岸地方では
古くから一般的な植物です。
 
 

葉や茎には白い樹液が流れ、
花は独特で、
壺形に肥大した花序の内側に
多数の雌性の小花を密集した状態になります。




つまり
私たちが食べているイチジクの実は
実は
果実というよりも、
花です。



イチジクの花は、
リンゴや梨や桃のように
外側に咲きません。

いつも見られる実のような形の雌花の鞘の中で咲いているのです。


リンゴや桃は、一つ一つが
植物学上では、
痩果(そうか)という果実になりますが、

イチジクでは、
あの実の中にある
とろけた粒々の一つ一つが痩果なのです。



これは、
イチジクの壺形に肥大した花のなかに詰まっているたくさんの小さな痩果が、
制約された地上世界の中における
さまざまな分野の知識を象徴しています。





人は、本当の世界の全容を
何も知ってはいません。



地上で集めたあらゆる知識などは、
イチジクの実の中に詰められた痩果のようなものなのです。




知識とは
そういうものです。


知識で得られるのは
制約された世界の「事実」であり、
「真実」ではありません。



一方の
智慧には制約はありません。
智慧によって得られるものは
「真実」です。
 
 
 
 

さて、

何故神様は、
人が食べてはいけない「善悪の知識の木」を園の中央に植えたのでしょうか? 

 

この知識の木の実は、
人間の自由意志の象徴として使われています。

 

 

自然界の存在はすべて調和の中に存在しますが
 

鉱物は、地上に物質体だけを表現し、魂はエネルギー領域に存在します。
 

植物は地上に物質体と生命を、
 

動物は地上に体と生命と心を持ち込み、魂はエネルギー領域にあります。
 

人は地上に体も生命も心も魂も持ち、エネルギー領域の魂との繋がりも密です。

これが人は神の子と言う理由です。
 

 

だから、

人間だけが、すべてを選択する自由意志を持っています。

 

 

何故?
 

人が地上に来た理由は、魂を進化させて、神と合一すること。

 

 

地球でのあらゆる選択には魂を進化させる大切な意味があります。

 

 

だから、
自然界の存在はすべて選択の意思なく調和の中に存在しますが

人間だけはすべてにおいて自由に選択する意思があるのです。
 

光も闇も、
創造も破壊も、
幸福も不幸も
自由に選択することが出来ます。
 

 

その選択によって
魂が大きく進化できる可能性があります。
 

光を選択すれば二元性から離脱していき、
闇を選択すれば二元性に強く留まることになります。
 

 

人の選択する二元性には神聖な意味があり、
その背後には秩序だった宇宙の摂理が隠れています。

 

 

 

エデンの園で幸せに暮らしていたアダムとイブに、

ある日、
蛇が近づいてきて、

イブは蛇からこの実を食べるようにと、
そそのかされます。

 

 

エデンの園で幸せに暮らしていた時には、

人の魂は、
地上に下りながらも最初は霊的次元、神の想念の内に留まっていた状態です。
 
 

蛇が近づいてきたというのは、

自己意識が芽生え、
自分の可能性を外に向けて表現したい欲求が生まれてきた状態を表します。



蛇は、
後述しますが、
人に内在するある種のエネルギーを意味しています。
 
 

 

この知識の実を食べる行為は、
自我が芽生え、
その自我を増強させることを選んだという状態の象徴です。


 
知識の実で得られる 
知識とは、

もともと
智慧が、
自分の自我あるいは他人の自我によって変性したもの。

 

これが知識と智慧が違う点です。


 

知識は、
自分の自我に繋がるもの、
智慧は神と直接繋がるもの。

 

知識を纏うことで、

人が本来持っている聡明さは失われ、

罪の意識が始まります。

 

それゆえ
 

偽りの智恵である知識から完全に離脱しなければ、

神の分身としての、
「ありのまま」の人には戻れなくなってしまったのです。

 

「ありのまま」であれば、
「ありのまま」である大自然と同調することが出来ます。

 

そこには、
罪の意識など存在しない状態があります。
 
 

これをもう一度、
自らの内側から理解することが出来たのであれば、

種子から芽が出るように

卵から雛が孵るように

人は大きく昇華されます。
 
 

その時に、
知識は落ち、

神に属する智慧だけが残ります。
 
 

つまり再び、
神と共に在る状態に戻るのです。


 

 

『主なる神が造られた野の生き物で、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。

「園のどの木からも食べてはいけないなどと神は言われたのか」 女は蛇に答えた。

「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木

の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない。死んではいけないからと神様

はおっしゃいました」

蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように

善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」

女が見ると、その木はいかにも美味しそうで目を引き付け、賢くなるように思えた。

女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。2人の目は開け、

自分たちが裸であることを知り、2人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うもの

とした…』

 


 

蛇から誘惑されたイブは、
神様から「食べてはいけない」と警告を受けて
いた知識の木の実を
食べてしまいます。

 
 

この蛇は、
神のエネルギーの最も地上に根ざした性質を持つもの、

つまり

性エネルギーを示しています。
(ここでいう性エネルギーは、
狭義の性エネルギーとは異なります。
広い意味での強く動的な生命エネルギーです。)

 

実際に、
性エネルギーが幽体脊髄を上方に流れると、

蛇が力強くうねるように昇っていく感覚があります。


私の経験では
津波のようなとても大きく活きた力のエネルギーが
うねるように
上っていく感覚でした。
 
 

 

何故、
主なる神が造られた生き物の中で、
最も賢いのは蛇(性エネルギー)であったのか。
 

それは

性エネルギーは、もともと神の愛で作られているから。
 

性エネルギーは、
神の愛を原料にして、
地上での魂の修行のためにアレンジされたもの。
 

 

地上で、
性エネルギーをどう使うか
で、

神と再び合一できるかどうか

分かれ道になります。

 

 

多くの人々は、
地上の引力によって、
性エネルギーを誤用することになります。
 

引力は、
物質だけではなく、
波動の低くなった不可視のエネルギーをも引き寄せるのです。

 

 

それが直接的に作用するのは、
人の潜在意識の領域であり、
旧約聖書においては
それがイブに働きかける物語として象徴的に表現されています。


 

 

性エネルギーは、
一つの方向にだけ進む性質を持っています。
 

肉体的な欲求に従う場合は、下に向かって流れます。
 

神へと向かう欲求に従う場合は、上に向かって流れます。



同時に両方向に流れることはありません。
どちらか一方を
選択するのです。
 

 

ダイヤモンドは、
石炭と同じ炭素からできています。
 

ルビーやサファイヤは、
どちらも
ボーキサイトと同じ水酸化アルミニウムから出来ています。
 

 
原料が同じでも
表現形が違います。


 

地上での肉欲に使う性エネルギーは、石炭のようなもの。
 

地上での神聖な行為に使う性エネルギーは、ダイヤモンドのようなもの。


 

素材は同じですが、
人の意識によって、大きく差が出ます。

すべては、人の意識次第。

 

 

肉体的な性行為によるエクスタシーは、

初期段階の神への歓喜に非常に類似した現象を引き起こします。
 

これが神へ性エネルギーを向ける疑似体験になります。
 

でも、

とても刹那的であり、

持続することはありません。
 

意識も外側に向けてしまうことで、

エネルギーは浪費されてしまいます。

 
 

これとは正反対に、
性エネルギーを上に向けて流れる場合、

とても強いエクスタシーが続きます。
 

エネルギーは循環され、

意識は内側へ向かうことで、

宇宙と繋がります。

 
 

私たちが性行為を行うのは、本来神へと向かう疑似行為であり、

とても神聖なもの。
 

それを隠したり、

否定することは、

神へ向かうエネルギーをも否定することになります。

 

 

宗教指導者の性的暴行が多発しています。
 

宗教は、
教義ばかりに目を向けて、
その教えに合わない肉体的側面は抑圧してきました。

セックスはいやしいものと見なして隠され、
抑圧してきました。

 

でも
実際には、
とても神聖なものなのです。

 

魂が肉体と共にあるのは、

自らの現実を否定するためでなく経験するため。

 

未熟なうちに、自然に湧く感情を否定・抑圧すれば、

結果的に霊的・身体的な波動をゆがめる原因になってしまいます。

 

ただし
性行為によるエクスタシーは、
あくまでも疑似体験にしかすぎません。
 

それは
エネルギーの方向性が違うから。
 

子供が、空想を膨らませながらミニカーで遊ぶようなもの。
 

ミニカーは、子供が大人になっても、ミニカーのまま。
 

大人になって、
ミニカーから本物の車に乗るには、
何かを変えなければなりません。
 

それは、
性エネルギーの使い方です。

 



 

性エネルギーは、
河の流れのように、

絶えずどこかに流れる必要があります。
 

エネルギーを上に流すには、

地上での様々な厳しい規律を

自らに課さなくてはなりません。


 

だから、
人は、

最も楽な方向、性行為、おしゃべりなど外側の世界へ向けて

性エネルギーを放出することを選んでしまいます。

性エネルギーを肉体面に向けている場合、
禁欲によって方向性が変わることはありません。

離欲が必要です。

花が開花し、
時期がきたら、
一枚ずつ花びらが散っていくように、
自然な流れで肉体的欲望が消えていくことです。

 

 

性エネルギーの方向性を決めるのは、

行為ではなく、

自らの意識です。

 

 

性行為を神聖な儀式として、
神へと繋げるタントラのような技法がのこっているのもそのためです。

 

本来、
性エネルギーは、
火の元素によって動かされます。
 

火は、
上に向かっていくもの。
愛も上に向かっていくもの。
 

それを
自我の引力によって歪められ、
下に向けてしまうことで消耗しています。

 

 

私たちは
現代の歪められ誤解されてきた性への認識から離れて、

もう一度
無垢な状態で、

性を見つめ直す必要があります。

 

愛する人との性行為は、

本当はとても

神聖な行い。

そこに知識は
必要ないのです。 

 

相手のハートに在る神を敬いながら、

愛してみてください。
 
 

 

「食べても決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように

善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」
 
 

これは、
すでに性エネルギーに自我が入ったことを示しています。



 

私たちは、
自分の範囲を遥かに超えた未知のものを避ける傾向があります。

 
 

 

自分たちが裸であることを知り、

これは、
自分たちを霊的な存在から、
肉体的な存在へと認識を変えたことを示しています。



 

意識の焦点が、
内的中心から、
外側へと移ったことを意味します。

 



 

 
最後に余談ですが、 

「裸」という漢字が、
衣をつけた果実と書くのは、面白いところです。
 

エデンの「園」は、
二元性の世界に囲まれた□の中で、
肉体を纏うを意味する「袁」が
組み合わさった漢字になっています。

エデンは、中国語の聖書では
「伊甸」
伊は、にんべんに「尹」。
「尹」は、手で神杖を持った状態を表わしています。
そのため
伊は、神の意志を持った聖なる人。
甸は、天子直属の土地を意味しています。
 

 

「2人はいちじくの葉をつづり合わせ、

腰を覆うものとした…」


・・・。




今回は、
ここまでです。

これは多角的に意味が埋め込まれている聖書の
ほんの一面を解釈したものです。

象徴的に書かれた文章をすべてを解説しだしたら
キリがないほどの量になります。




いつか

誰もが解読できるようになってもらう技法を伝えようと思います。


とりあえず
2月23日のきれいねっと・
なおちゃん流・超進化論講座で
光田先生と共に

お話をしてきたいと思います。

.。゚+.(・∀・)゚+.゚



「神理の扉」
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きれいねっと・なおちゃん流・超進化論講座2月23日東京
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「新 臨床家のためのホメオパシーマテリアメディカ」(数量限定品)

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そろそろ地震の備えも確認しましょう。

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