今年は休みの日が雨と重なることも多く
苔をよく鑑賞する機会に恵まれました。
苔の森をゆっくりと
歩いてきました。
動画を撮りました。
BGMも入れてあります。
自然界の摂理にそった生き方を見直しましょう。
生と死の循環は
物質的なものに限定しているわけではありません。
見えない世界でも
同じような循環が存在しています。
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苔をよく鑑賞する機会に恵まれました。
人の来ない原生林の中は、
とても美しい光景が広がっています。
美しい植物たちが共存し、
さまざまな動物たちも暮らしています。
足元を見ると、
朽ちて倒れた巨木や枯れ葉があります。
倒れた木の上には、
さまざまな苔が生えて、
朽ちた木の幹の中には多くの昆虫たちが住んでいます。
とても美しい光景が広がっています。
美しい植物たちが共存し、
さまざまな動物たちも暮らしています。
足元を見ると、
朽ちて倒れた巨木や枯れ葉があります。
倒れた木の上には、
さまざまな苔が生えて、
朽ちた木の幹の中には多くの昆虫たちが住んでいます。
すべての植物、
すべての動物たちは、
亡くなった後も、
何一つ無駄になることなく、
他の生命体の栄養となって役立っています。
すべての動物たちは、
亡くなった後も、
何一つ無駄になることなく、
他の生命体の栄養となって役立っています。
自然界においては、
死は未来の世代に繋ぐものとしての役割を持っています。
死は未来の世代に繋ぐものとしての役割を持っています。
森の中では、
どこを見ても「生と死」が混在している美しい世界、
生命の循環
が見られます。
どこを見ても「生と死」が混在している美しい世界、
生命の循環
が見られます。
一方、
私たちの現代社会はどうでしょうか?
都会のどこを見渡しても、
「死」が隠されています。
私たちの住む社会は、
日常生活から「死」を排除してしまいました。
ほとんどの人は病院で亡くなり、
道路に木の葉が落ちたり、
動物たちの遺体があれば
すぐに
ゴミ
として排除されます。
スーパーで売られるお肉でさえ、
死は隠された場所で行われ、
パックに詰められたお肉が
動物の命を犠牲にして
得られたものであるという認識すら無いようです。
私たちの現代社会はどうでしょうか?
都会のどこを見渡しても、
「死」が隠されています。
私たちの住む社会は、
日常生活から「死」を排除してしまいました。
ほとんどの人は病院で亡くなり、
道路に木の葉が落ちたり、
動物たちの遺体があれば
すぐに
ゴミ
として排除されます。
スーパーで売られるお肉でさえ、
死は隠された場所で行われ、
パックに詰められたお肉が
動物の命を犠牲にして
得られたものであるという認識すら無いようです。
人は、
死の本当の意味を理解することないまま、
死を隠してしまいました。
死の本当の意味を理解することないまま、
死を隠してしまいました。
それによって
死に対する大きな誤解
が生まれています。
死に対する大きな誤解
が生まれています。
現代社会では死は終わりを意味するようになり、
死んだらすべてがなくなってしまうという妄想が
当たり前のようになりました。
死んだらすべてがなくなってしまうという妄想が
当たり前のようになりました。
そしていま、
人は、
死を忌み嫌い、
怖れるようになっています。
人は、
死を忌み嫌い、
怖れるようになっています。
さらに、
逆の方向に考える人たちも出てきました。
死をとても軽く捉え、
命に対して敬意を払わない人たちも出てきました。
逆の方向に考える人たちも出てきました。
死をとても軽く捉え、
命に対して敬意を払わない人たちも出てきました。
どちらも
死を良く理解していないことによる弊害と言えるでしょう。
死を良く理解していないことによる弊害と言えるでしょう。
この世に生きているうちがすべて、
死んだらお終いという誤解が生まれ、
精神的なものよりも物質的なものや快楽を優先するような風潮が生まれました。
死んだらお終いという誤解が生まれ、
精神的なものよりも物質的なものや快楽を優先するような風潮が生まれました。
死を理解しないまま否定することで起こる大きな弊害は、
政治や経済をはじめ、
あらゆる分野において浸透しています。
医療分野においても、
魂の尊厳よりも、
ただ死なせないことが優先されてしまった結果、
真の医療からは
かけ離れたものになってしまいました。
政治や経済をはじめ、
あらゆる分野において浸透しています。
医療分野においても、
魂の尊厳よりも、
ただ死なせないことが優先されてしまった結果、
真の医療からは
かけ離れたものになってしまいました。
人の活動に伴って起こっている地球環境の破壊も、
動物たちの絶滅も、
「死」を誤解してしまったことに
根本的な原因があります。
死をすべての終わりと妄想することで、
人は破滅的な行動が可能になってしまうのです。
動物たちの絶滅も、
「死」を誤解してしまったことに
根本的な原因があります。
死をすべての終わりと妄想することで、
人は破滅的な行動が可能になってしまうのです。
苔の森をゆっくりと
歩いてきました。
動画を撮りました。
BGMも入れてあります。
自然界の摂理にそった生き方を見直しましょう。
生と死の循環は
物質的なものに限定しているわけではありません。
見えない世界でも
同じような循環が存在しています。
自然界での死と生の循環のように
未来の世代の栄養となるように、
未来の世代の栄養となるように、
私たち一人一人の言動が
すべての存在への心の栄養となって、
この世界をさらに明るくしていけるよう
心掛けていきましょう。
君が代から神が代への序文からの一部抜粋でした。
すべての存在への心の栄養となって、
この世界をさらに明るくしていけるよう
心掛けていきましょう。
君が代から神が代への序文からの一部抜粋でした。
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コメント
コメント一覧
生命のリアリティや今に生きることを見失う原因に成ってるのですね~✴️
無条件の愛の世界を培い育む自然と生きる大切さを感じます。
ありがとう御座います。
帯津先生が、あれだけ笑いを取り入れながら、死の向こうを見据えたこちらを生きて、あちらで会いたい人盛り沢山の講演をなさっていらしたのですが、日曜日の朝食時に幾人もの方々が、
森井先生に「死(ぬこと)は怖くないですか?」と、質問していらしたことが、私にはとても印象深く、正直なところ不思議にさへ感じました。
多くの方々が、死に恐怖を感じる要因として、
森井先生が仰るように、私たちの日常生活から死が隠され隔離されてしまっていることが有ると感じています。
どこに端を発したかに思いを及ばせるに、恐らくは平安時代からであろうと思われてなりません。
人の死を忌み嫌い、穢れとして隔離して、貴族でない者たちに恐怖の念を抱かせて、搾取コントロールの為の洗脳へと巧く利用した辺りから根強く植え付けられ、またその後に続く時代に於いても、やはり社会構造がピラミッド型のヒエラルキーであったために、死の恐怖を植え付けて利用する方が、何かと統制し易かったがためであろうと思います。
続く
現在のワクちゃんも同様ですよね❗
ただ(睡魔で何度も気絶💢)個人的に体験上から思うことには、息を引き取る(=死)の瞬間の状態が、フラットなのか、あるいは痛みや苦しみに喘いでいたり、苛まれていたりすると、場合によってはその後の世界でも、存在しない痛みや苦しみに悩まされることも無きにしもあらずということもあるように感じますので、なるべくならば、穏やかに旅立ちたいと思う次第です。
死に関しての不都合は、死を迎え旅立った者よりも、残された者の精神的なケアやフォローの方が寧ろ重要な場合も多々あると感じます。
(申し訳ないことですが、意識が途切れるため終了させて頂きます)
昨日の記事にもある、>この水輪には
天使のような無償の愛の人「さおりちゃん」が中心にいるからです。
という言葉は、さおりさんが水の下から呼吸を投げかけ、水面にやさしい水輪ができるイメージが浮かびました。
夜にお話し会があったことは知らず参加できなかったことは残念ですが、一度に多くは望むまい、ですね。
わたしも日本において、死が隠されていることには不自然さを感じていて、若かりし頃インドに行ったのは普通にある死を見たかったからでした。海外に出ることは日本の不自然さが浮き彫りになるとともに、日本の良いところも見直せてそれはそれでよかったです。
自然界における循環。そうですね。人間が介入しないところでは美しい循環があります。わたしも狭い庭では、なるべく落ち葉はそこに残して菌の繁殖を促したり、生ゴミも堆肥化させて利用するようにしています。
自分自身もひとつの菌を見習って少しでも良い働きができるようにこころがけたいです。
セミナーの時、できるならばしてみたい質問がありました。先生の師でもあったとお聞きしているパラマハンサ・ヨガナンダさまは、お弟子さんですか、人々の前で、私はこれから死にます。のようなことを言って、自らの意思で亡くなったというようなことをお聞きしています。
森井先生はどのような死の迎え方をなさるのか? 今はなにも考えておられないのか?知りたいところでした。私は死への恐れはありませんが、ただ病院で死ぬことが嫌なのです。
それから、お孫さんのお誕生、おめでとうございます!なによりうれしいいのちの循環ですね。
実際に足を運べればよいのでしょうが、今はこのような影像に心の栄養をいただいています。
海があって山があって、裏山に行けばちょっとした自然と人の街の対比を身近に感じられる港町の環境に育った自分は、関東平野がどうにも苦手だったのですが、今日先生のブログを読んで、命の手触りみたいなものが風景から感じにくいからだと気づきました。ああ、だからだ、、、と。関東平野を散歩しても散歩しても、幼少期にたやすく手に入った感覚がどうしても得られなくて、味気なくてさみしくて何かうそをつかれているような、大事なものを取り上げられたような感覚を持ったことを思い出しました。
懐かしく、心洗われ、涙が出ます。
何の争いも無く、ただ生まれそして時とともにまた自然に戻ることそれが唯一の美しさだと思います。
ありがとうございます。
今まで、肉体という器の中にスピリットが入っていると思っていたのですが、本日、銭湯の露天風呂に浸かっていたら、スズメの足じゃないけど、肉体がしがみついてるような感覚になりました。
温冷浴30分すると、ちょっと正気に戻りますね。
苔の黄緑が太陽の光を浴びてキラキラ輝き、
まっすぐな太い大木は天に向かって伸び、
質素な境内は静けさをたたえている。
鳥居をくぐると、森林の中に迷いこんだかのようでした。
神様はふらふらと自然の中にいらっしゃる。
君が代の こけ=九期、虚仮 がむす世の訪れが楽しみです。
ギーターは、いつの時代も万人に等しく開示されているけれど、
君が代は、まさに今の時代の日本に、ピンポイントで合わせてきた感じがします。
それもはるか昔に。
わぁーお!!
いつも有り難う御座います。