続きです。
このように
ギーターには
短い言葉の中に多くの意味が多重に含まれています。
また
ギーター全般に使われている美しい韻を踏む言葉は、
それを正確に唱える人の生体の波動にも良い影響を与えます。
ギーターには
短い言葉の中に多くの意味が多重に含まれています。
また
ギーター全般に使われている美しい韻を踏む言葉は、
それを正確に唱える人の生体の波動にも良い影響を与えます。
ここでは、
yo na dvesti na kanksati
憎しみも望みもない者(ヨー ナ ドヴェーシュティ ナ カーンクシャティ)
yo na dvesti na kanksati
憎しみも望みもない者(ヨー ナ ドヴェーシュティ ナ カーンクシャティ)
yo (yah)~の人、
na 決して~ではない、
devesti 憎しむ、
kanksati 望む
na 決して~ではない、
devesti 憎しむ、
kanksati 望む
この多くの意味が
凝縮された八音一節だけを見ても、
綺麗に韻を踏み
美しい詩になっています。
凝縮された八音一節だけを見ても、
綺麗に韻を踏み
美しい詩になっています。
憎しみも望みも、
低次の自我が作り出します。
この低次の自我がある限りは、
解脱に至ることはありません。
低次の自我が作り出します。
この低次の自我がある限りは、
解脱に至ることはありません。
ブラフマンと、
アートマンは同一であり、
ブラフマンのみが実在であるとする不二一元論ヴェーダーンタ哲学を説いた8世紀のシャンカラ大師(シャンカラ・アーチャーリヤ)は、
8歳の頃に
次のような詩を残しています。
アートマンは同一であり、
ブラフマンのみが実在であるとする不二一元論ヴェーダーンタ哲学を説いた8世紀のシャンカラ大師(シャンカラ・アーチャーリヤ)は、
8歳の頃に
次のような詩を残しています。
「私は、
思考でも知性でもない。
記憶でもエゴでもない。
聴覚でも味覚でも嗅覚でも視覚でもない。
地でも空でも火でも風でもない。
私は無限の意識、
遍満する純粋な自己である。」
シャンカラ大師:ニルバーナ・シャタカム第一節
思考でも知性でもない。
記憶でもエゴでもない。
聴覚でも味覚でも嗅覚でも視覚でもない。
地でも空でも火でも風でもない。
私は無限の意識、
遍満する純粋な自己である。」
シャンカラ大師:ニルバーナ・シャタカム第一節
「私には、
好き嫌いはない。
欲望も願望もない。
高慢や嫉妬もない。
富や快楽や法や悟りを追求することもない。
私は無限の意識、
遍満する純粋な自己である。」
シャンカラ大師:ニルバーナ・シャタカム第三節
好き嫌いはない。
欲望も願望もない。
高慢や嫉妬もない。
富や快楽や法や悟りを追求することもない。
私は無限の意識、
遍満する純粋な自己である。」
シャンカラ大師:ニルバーナ・シャタカム第三節
次は
「幼稚な者は知識(サーンキャ)と実践(カルマ・ヨーガ)が異なると言うが、賢者はそうは言わない。どちらかの道を究めれば、両方の成果が得られる。(四)」
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コメント
コメント一覧
「私には、
好き嫌いはない。
欲望も願望もない。
高慢や嫉妬もない。
富や快楽や法や悟りを追求することもない。
自分は、そうだと思っていました。
(そして、それを、良い事とは思えずいました。)
森井先生に、巡り合うまでは、
ところが・・・。
良い事と知った今、ジワリ、ジワリ、しみ出してきている氣がします。
上手く表現できていません。自分の心が矛盾だらけかも。
とても愚なる疑問で恐縮なのですが‥‥
「地でも空でも火でも風でもない」
何故、最も大切な「水」は「ない」ではないのでしょう
(「水」無くばやはり人はないのでしょう‥‥かと)
悟りを得て解脱を果たすことは
困難といわれていることであるだけに
意義深いことは理解できます
されど
このマザーアースガイアの住人とさせて頂いている限りは
その恩恵に与りバランスを取りつつ人生を謳歌するではよからぬものかと‥‥
(贅沢や放蕩をよしとしているわけでは断じてありません)
至らぬ思いさへ脳裡を掠めてまいります
確かに人は身に沁む思いをせねば
なかなか胆に落ち難いというのが一般的であるにせよ
何故難解な表現スタイルで聖典を残さねばならなかったのでしょうか
権力者や支配者が搾取の対象者を失いたくなかったからなのでしょうか
何れにせよ多くの疑問符?が
私の脳内をザワつかせています