神の詩 第5章八・九節 4

himalaya-647135__340



「真我に意識を集中した聖者は、見たり、聞いたり、触れたり、嘆いだり、食べたり、動いたり、眠ったり、呼吸したり、話したり、排池したり、つかんだり、目を開閉したりしていても、「私は何もしていない。感覚がその対象に働いているにすぎない。」と考える。(八、九)」


続きです。




花を観たら
花とぴったり合わさる。



つまり
花に逢った時には、
何も頭で考えることなく、
花と自分の深い意識を合わせてみることを表しています。


その花の波動が奏でる美しい旋律を、
純粋にハートで味わってみましょう。


その花に
自分の意識を「合わせて」、
大地の強いエネルギーに根を下ろし、
そよ風を感じ、
太陽光の中でエネルギーをもらい、
美しく楽しく、
ただ
咲いてみる。


こうして
初めて
花を愛でることになるのですが、
真我を見出した後では、
花と真我が、
花と太陽との関係のように
お互いに別々に保たれながら
「合わさる」、

つまり
「打つ」
ことになります。


「花を愛でる」

そこには、
花を見るだけではなく、
愛があります。

だから
「愛でる」
というのです。

それが
対象物の真の価値を引き出します。



続きます。


精解 神の詩 聖典バガヴァッド・ギーター 1
森井 啓二
きれい・ねっと
2021-08-20






今日もありがとうございます。
ブログランキング参加しています。
応援クリックお願いします。

人気ブログランキング