神の詩 第5章八・九節 5

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「真我に意識を集中した聖者は、見たり、聞いたり、触れたり、嘆いだり、食べたり、動いたり、眠ったり、呼吸したり、話したり、排池したり、つかんだり、目を開閉したりしていても、「私は何もしていない。感覚がその対象に働いているにすぎない。」と考える。(八、九)」


続きです。



真我を見出した後では、
花と真我が、
花と太陽との関係のように
お互いに別々に保たれながら
「合わさる」
ことになります。


「花を愛でる」

そこには、
花を見るだけではなく、
愛があります。

だから
「愛でる」
というのです。

それが
対象物の真の価値を引き出します。



それは
花だけに留まることなく、
吹き抜ける風の中に、
輝く光の中に、
流れる水の中に、
葉の上を歩く小さな虫に、
遠くにそびえる山々に、
夜空に煌めく星々にも、

美しさと尊さを
見出すようになっていきます。


そして
この意識の姿勢は、
日常生活の
あらゆる所作に活かすことができます。

これが
行動の道が大切な理由の一つとなります。




日々の瞑想によって、
心を
自分の内側に在る真我へと
近づけていきます。


それは
意識の海の深海へ行くようなものであり、
意識の大気層から
大気圏外にある
太陽へと向かうようなイメージを持っていてもいいかもしれません。


人は、
意識を内側に向ける瞑想と共に、
意識を外側に向ける行動を行います。

この
外に向けた行動の際に、
瞑想で到達した内側の深い意識を伴っておきます。


このような実践を繰り返すことによって、
深い意識を保ちながら、
外の世界での活動に
従事していく状態を発達させていきます。



言い換えれば、
瞑想で到達する普遍意識を、
瞑想以外の実生活でも
保ちながら生活するということになります。




次は

「行動をブラフマンに捧げ、執着を捨てて行動する者は、蓮の葉が水に汚されないように、罪悪に汚されない。(十)」


君が代から神が代へ 上巻
森井 啓二
きれい・ねっと
2018-12-18





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