神の詩 第五章十二節 2
続きです。
心が対象に触れた時に
「心を統一した者(ヨーガ行者)は、行動の結果を捨てて、究極の平安に達する。心を統一していない者は、欲望のままに行動し、結果に執着して束縛される。(十二)」
続きです。
心が対象に触れた時に
心が安定していなければ、
揺れ動きます。
心が揺れ動くことにより、
悩みや苦しみが生じます。
心を鍛え清めて、
正しい状態を保てれば、
心は穏やかに静謐になり、
問題は起こらなくなります。
揺れ動きます。
心が揺れ動くことにより、
悩みや苦しみが生じます。
心を鍛え清めて、
正しい状態を保てれば、
心は穏やかに静謐になり、
問題は起こらなくなります。
心を鍛えるのは、
心がいつも揺れ動いてしまうからです。
鍛えられていない心は、
対象となるものに
大きく影響して揺れ動き、
夢中になり、
欲望のままに節操なく動き続けます。
心がいつも揺れ動いてしまうからです。
鍛えられていない心は、
対象となるものに
大きく影響して揺れ動き、
夢中になり、
欲望のままに節操なく動き続けます。
体を鍛えるためには運動するように、
心を鍛えるためには、
日常生活を整えることから始まり、
日々の洞察、
呼吸法と瞑想を通して、
静寂体験を積み重ねていかなくてはなりません。
心を鍛えるためには、
日常生活を整えることから始まり、
日々の洞察、
呼吸法と瞑想を通して、
静寂体験を積み重ねていかなくてはなりません。
心を鍛える過程では、
苦も
楽も
体験します。
苦も
楽も
体験します。
苦は、
誰もが嫌がり、
避けようとしますが、
苦を体験することで
気づきと智慧がもたらされます。
誰もが嫌がり、
避けようとしますが、
苦を体験することで
気づきと智慧がもたらされます。
コメント
コメント一覧
小学校の保護者を対象とした講演会の中で、「心が確かにあると感じているのであれば、心とは何処にあるのでしょう?」という問いかけがありました。
ほとんどの人は、胸(心臓)と答え、いくらかの人は頭(脳)だと答えました。
私は当時、精神世界に踏み込んでおらず、漠然としか話を聞いていなかった為、講師の先生がどのような解を与えて下さったのか覚えていません。ただ、この問いかけだけが、ずっと心に残っていました。
心の対象を受け取るものが「心」であるならば、心は、対象が無いときには認識出来ないことになります。
しかし、「無い」を認識することは不可能かも知れません。「無い」という状態が「在る」という認識が残るからです。
敢えて表現すれば、(対象が)「在る」の背後には同時に「無い」が存在していることになります。「無い」という下地に、「在る」という認識が重なっているとも言えるかも知れません。それらは、同時に起こっているのではないでしょうか?
心が対象ではないのであれば、直接心を捉えることは出来ない。これ以上分けることのかなわないものなのでしょう。
認識とは、無知を伴わなければ生まれない働き。分離は認識の母。
その働きの一部を、結果として味わうことは出来ますが、それそのものを知ることのかなわないもの。
心を統一するとは、一体何を何に重ねることなのでしょう。絶えず生まれる認識。その働きが在るということしか、今は分かりません。
そのコントラストを味わう(経験する)ために降りて来た・・・・
そこから得られるもの(の価値)は大きい
味わい尽くしたならば
自ずと静まりゆく
のではなかろうかと(浅識な)私はおもう。
それは、自分の心に、ミックスして、起こっています。
一つの事象に対して、それは、苦であり、楽であること。
なのです。