神の詩 第五章十二節 15

続きです。
正知によって

「心を統一した者(ヨーガ行者)は、行動の結果を捨てて、究極の平安に達する。心を統一していない者は、欲望のままに行動し、結果に執着して束縛される。(十二)」
続きです。
心の作用1:
正知(プラマーナ)(正しく優れた知)
正知(プラマーナ)(正しく優れた知)
正知によって
神の存在を認識出来ないにも関わらず、
神の臨在を確信することは出来るのです。
神の臨在を確信することは出来るのです。
自分が実際に体験したこと、
そこから洞察したことを、
聖なる叡智の中に見出すことは
とても価値あることになります。
そこから洞察したことを、
聖なる叡智の中に見出すことは
とても価値あることになります。
ヨーガでは、
この正知も
最終的には、
止滅させる
ことになります。
それは
正知を知らなければ
驚くことかもしれません。
この正知も
最終的には、
止滅させる
ことになります。
それは
正知を知らなければ
驚くことかもしれません。
なぜ
正知まで捨ててしまうのかを説明しましょう。
正知まで捨ててしまうのかを説明しましょう。
ある人が、
聖者に質問しました。
「神は本当にいるのでしょうか?」
聖者に質問しました。
「神は本当にいるのでしょうか?」
聖者は答えます。
「神は存在する。」
「神は存在する。」
さらに質問します。
「それは証明できますか?」
「それは証明できますか?」
聖者は答えます。
「神は存在する。
それを私は知っているから、
証明する必要はない。
あなたは神を知らない。
だから証明してほしいと言う。
でも、あなたが神を知った時、
もはや証明してほしいとは思わないだろう。」
「神は存在する。
それを私は知っているから、
証明する必要はない。
あなたは神を知らない。
だから証明してほしいと言う。
でも、あなたが神を知った時、
もはや証明してほしいとは思わないだろう。」
正知という心の働きも同じことです。
つまり、
完璧な理解の後では、
必要なくなるのです。
つまり、
完璧な理解の後では、
必要なくなるのです。
究極の神を体験した後では、
正知の知覚と洞察と聖典の言葉は、
もはや
必要がなくなります。
正知の知覚と洞察と聖典の言葉は、
もはや
必要がなくなります。
この正知を深めるには、
体験した出来事に対して、
原因と結果の繋がりを
注意深く洞察することと、
毎日聖典を読む習慣をつけることです。
続けましょう。
明日は
心の作用2:誤解(ヴィパリャヤ)(逆さまの知)についてです。
今日もありがとうございます。
ブログランキング参加しています。
応援クリックお願いします。

人気ブログランキング
体験した出来事に対して、
原因と結果の繋がりを
注意深く洞察することと、
毎日聖典を読む習慣をつけることです。
続けましょう。
明日は
心の作用2:誤解(ヴィパリャヤ)(逆さまの知)についてです。
今日もありがとうございます。
ブログランキング参加しています。
応援クリックお願いします。
人気ブログランキング
コメント
コメント一覧
日々は、求め、考え、出会い、感じて、そしてそれらを反芻もし、それらを近くに引きつけたり、意識的に、また無意識に見失ったりの連続に感じます。これらの行動を通じて、まさに知るに至る時、消え去ってゆく存在が多数あるということ。
歩みを確実に、続けていきます。
ありがとうございます🌿
本日の神についてのお言葉、腑に落ちました。疑問も起きず、只々感謝が生まれました。
この心を維持するために瞑想します。
体験とともに神の臨在を確信するまで
全体の一部であることを分かること
時空間の因果背景を洞察して、全体の一部であることが理解できなければ、一部だけわかっても真に分かったことになりませんね。