na kartṛtvaṃ na karmāṇi lokasya sṛjati prabhuḥ
na karmaphalasaṃyogaṃ svabhāvas tu pravartate 5.14
「主はこの世の人々の行為者である状態も行動も生み出さず、行動の結果との結合も生み出さない。自然(プラクリティ)がすべてを行っている。(14)」
続きます。
自然の本性(プラクリティ)から三つのグナが生まれ、
そのグナの働きによって
創造世界の誕生と維持、そして破壊のサイクルが運営され、
「自性」
として成り立っています。
そのグナの働きによって
創造世界の誕生と維持、そして破壊のサイクルが運営され、
「自性」
として成り立っています。
アボカドは、
果肉と種子で一つの果実を形成しています。
果肉も種子も、
それぞれ独自の役割があり、
独立しながらも直接繋がり、
一つの実を形成しているのと同じようなものです。
アボカドの実の本質は、
子孫繁栄のための種子にあります。
でも
ほとんどの人は、
アボカドの食べるための果肉だけにしか目がいかないために、
果肉が本質だと思っています。
でも果肉は、
時間と共に腐敗していき、
種子だけが残ります。
果肉と種子で一つの果実を形成しています。
果肉も種子も、
それぞれ独自の役割があり、
独立しながらも直接繋がり、
一つの実を形成しているのと同じようなものです。
アボカドの実の本質は、
子孫繁栄のための種子にあります。
でも
ほとんどの人は、
アボカドの食べるための果肉だけにしか目がいかないために、
果肉が本質だと思っています。
でも果肉は、
時間と共に腐敗していき、
種子だけが残ります。
生命にも、
アボカドの果肉と種子のように、
二つの面が一つの生体に存在しています。
現象世界の根源的物質であるプラクリティの面と、
永遠不滅の純粋意識であるプルシャの面。
行動と行動の成果は生命のプラクリティの領域に属し、
自然本性によって働いています。
そして、
絶対的存在であるプルシャの領域とは
直接的な繋がりがありません。
アボカドの果肉と種子のように、
二つの面が一つの生体に存在しています。
現象世界の根源的物質であるプラクリティの面と、
永遠不滅の純粋意識であるプルシャの面。
行動と行動の成果は生命のプラクリティの領域に属し、
自然本性によって働いています。
そして、
絶対的存在であるプルシャの領域とは
直接的な繋がりがありません。
純粋意識であるプルシャの境地に立って、
物質世界のプラクリティの領域で行動する場合、
その行動は、
宇宙、存在、現象を
創造的に豊かにする神の働きに参加することになります。
物質世界のプラクリティの領域で行動する場合、
その行動は、
宇宙、存在、現象を
創造的に豊かにする神の働きに参加することになります。
ここでもう一度、第2章を読んでみましょう。
「アルジュナよ、執着を捨て、成功にも失敗にもこだわらす、ヨーガに立脚して行動せよ。心の平静がヨーガ(実践)であると言われる。(48)」
「結果を求めて行う行動は、平静な心で行う行動にはるかに劣る。平静な心に身をゆだねよ。結果を求めて行動する者はあわれである。(49)」
「平静な心を得た者はこの世で善行にも悪行にもとらわれない。だから、ヨーガに専念せよ。完成をめざす行動がヨーガである。(50)」
第5章のクリシュナの言葉を理解すると、
第2章がさらにわかりやすくなったはずです。
第2章がさらにわかりやすくなったはずです。
ヨーガに専念し、
真我と至高霊の繋がりを確立した境地に達する前に、
善悪に囚われず、
執着を放棄する心構えが説かれています。
真我と至高霊の繋がりを確立した境地に達する前に、
善悪に囚われず、
執着を放棄する心構えが説かれています。
さらに第3章も読み直してみましょう。
「しかし、アルジュナよ、心で感覚を抑え、執着なく、行動器官で行動の道(カルマ・ヨーガ)を実践しようとする者は優れている。(7)」
「しかし、真我(アートマン)に喜びを見出し、真我に満足し、真我に安心している者に、なすべきことは何もない。(17)」
「彼には、この世で行動して得るものも、行動しないで失うものもない。彼は誰かに何かを期待することもない。(18)」
「だから、執着することなく、常に汝のなすべきことを行え。執着なく行動すれば、人は最高の存在(ブラフマン)に達する。(19)」
「愚かな人々は行動に執着して行動する。そのように、賢者は多くの人々を導くために、執着なく行動すべきである。(25)」
「賢者は行動に執着する愚かな人々の心を惑わせてはならない。賢者は着実に行動することによって、愚か者達があらゆる行動に励むように導くべきである。(26)」
「あらゆる行動はプラクリティ(原物質)のグナ(要素)が行う。我欲に惑わされた者は「私が行為者である」と考える。(27)」
「しかし、アルジュナよ、グナとカルマの性質を知る者は、感覚としてのグナ(肉体)がその対象としてのグナに働いているにすぎないと知って、(行動に)執着しない。(28)」
第5章の行動の放棄をすべて読んでから、
あらためて第2章、第3章と読み直していくと、
読みやすくなっているはずです。
バガヴァッド・ギーターでは、
とても大切なことが何度も形を変えながら、
わかりやすく理解できるように説かれているのです。
あらためて第2章、第3章と読み直していくと、
読みやすくなっているはずです。
バガヴァッド・ギーターでは、
とても大切なことが何度も形を変えながら、
わかりやすく理解できるように説かれているのです。
そして、
第4章で具体的に行動の奥深い説明が始まり、
さまざまな角度からさまざまなレベルで理解できるように導かれ、
第5章に至ります。
ここまでの間に、
生命の二層性と行動の関係、
行動を通して高い境地に到達するための道筋が示されました。
第4章で具体的に行動の奥深い説明が始まり、
さまざまな角度からさまざまなレベルで理解できるように導かれ、
第5章に至ります。
ここまでの間に、
生命の二層性と行動の関係、
行動を通して高い境地に到達するための道筋が示されました。
次は
nādatte kasyacit pāpaṃ na caiva sukṛtaṃ vibhuḥ
ajñānenāvṛtaṃ jñānaṃ tena muhyanti jantavaḥ 5.15
「遍在者(主)は誰の善も誰の悪も受け取らない。知識が無智に覆われるので、人々は迷う。(15)」
今日もありがとうございます。
ブログランキング参加しています。
応援クリックお願いします。
人気ブログランキング
コメント
コメント一覧
何にもわかりません…(爆)
だから何なの?…(爆)
日本人だ〜〜…という意識で
日本の教え…とも言える「日月神示」の
その圧縮版とも言える「よひとやむみな」(2021:8月発行)
を基本として、
現在、学ばせてもらっています。
それは、「自分の身魂にしっくりきた」からで、あります。…
今後もちろん、バガヴァット・ギーターにも学ばせていただきたいのですが
現在「しっくり来るのは」、「よひとやむみな」であります。
だから何なんだ…、という話ではありますが
実は…、もう、…ギーターの解釈は、うわのそら…
なんです。
これは結構いいのではなかと思っています。
いろんなしらがみを抜けて
無心になれるからです…
これがギーターを理解できる礎になれるかと…
そういう時はすっきりと一度完全に離れることをお勧めします。
うわのそらは、三つのグナのタマス優勢状態ですから。
また必要と感じたら、戻ってきてください。
ありがとう御座います😃
私は二つのギーター勉強会に参加していますが、ここはすごくレベルが高く、学びが多いです。もう一つの会では、うわのそらの人は追い出されます。皆さん真剣に学んでいますから。ご自分に合わないのであれば、離れた方がいいですよ。
私は、「神の詩」第3巻を、電子書籍で購入して
毎日Alexaで、聞いていた時期がありましたが
今後は、もう、紙の書籍も電子書籍も、購入する予定はありません。(出版社さんすいません)
自分でも不思議なほど、興味がなくなりました。
たぶん、三年後くらいに、変化があるのかもしれません。
もちろん、森井先生のブログや、貴重なtwitterでの発言は
今後も拝見していきます。
私の場合、読んでみて、「あっ、知ってる」という感覚と「どう表現していいか分からなかったことが、ここに書かれている」という感覚、そして「まだよく分からないけど、大切なことが書かれている」という3つの感覚を大切にしています。
分からないけど、気になる。そんなときは、時間をあけて読み返します。何度も。
大抵の場合、直ぐに分かるようにはなりません。んー、って感じですが、頭の中でしばらく転がして、少し遠くから眺めてみます。
私の理解と余りに差があるものは、その包みを自力で開くことは出来ません。でも、常に意識の中に置いておくと、少しずつ同調していくのかも知れません。ある時、全く違う経験と結びついて、紐解くきっかけを得ることもあります。
その時々で、同じ本を読んでいても意識が惹き付けられる場所が違ったりします。神の詩もそう。大切だと思う箇所は、ページを折り曲げたりしますが、のち程読むと、どうしてここを折ったのか分からない、ということさえあります。
そうかと思えば、「え?こんなこと書かれてたっけ?」と新しい発見をしたようなページに出会ったり。確かに、読んでるはずなのに。
最近は、瞑想のとき目を完全に瞑っていたスタイルを半眼にしてみたりしています。眠気が遠退き、また新しい感覚で瞑想に向かっています。生命の二層性の体現です。
ほんの少しだけど、これかな?って感覚が芽生えてる。その芽をそーっと、大切に育てていくことが、私の日課です。今日も、ありがとうございます。
私は、だから何なのというよりも、何故ここだけ(ルビ:)という丁寧な書き出しがついてあるのだろう?と思いました。
という、グナの性質から…
アボガドの本質を見る時にも、全体を捉えて見るのでなく、アボガドの実だけが本質と捉えてしまいがち。
自分の中にある サトヴァ ラジャス タマス 全体をみて、認め 理解し、善悪という物の見方を外す必要がある。
善悪の判断とは、自分の過去などのフィルターを通して、善悪の判断をするのだから。
これが、物質世界から離れるということに繋がるのだと思う。
全体を知ること 理解することで、囚われることなく、本質を知ることができるのだと思う。
私は、そう理解しています。