nādatte kasyacit pāpaṃ na caiva sukṛtaṃ vibhuḥ
ajñānenāvṛtaṃ jñānaṃ tena muhyanti jantavaḥ 5.15
「遍在者(主)は誰の善も誰の悪も受け取らない。知識が無智に覆われるので、人々は迷う。(15)」
行動も行動の結果も
すべて
三つのグナの働きによって展開されています。
地上で行動によって生まれる結果が、
善であっても
悪であっても、
それらは
すべてグナの働きによるものです。
すべて
三つのグナの働きによって展開されています。
地上で行動によって生まれる結果が、
善であっても
悪であっても、
それらは
すべてグナの働きによるものです。
つまり、
この世界の善も悪も、
超越した意識に根ざしたものではないことは明らかです。
超越した意識では、
すべての事象を
善眼と悪眼を超越した
「慈眼」
で観ていることになります。
続きます。
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この世界の善も悪も、
超越した意識に根ざしたものではないことは明らかです。
超越した意識では、
すべての事象を
善眼と悪眼を超越した
「慈眼」
で観ていることになります。
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コメント
コメント一覧
で観ていることになります。
なるほど…
「慈眼」って言葉に、はじめて出会いました。(もしかして、過去にも出てたかも知れませんが)
これを読むと、ついつい「慈眼」を善眼でとらえてしまいそうになります。行為の延長に「慈眼」があり、選択肢のひとつだと。
「良い悪いを決めつけず、楽しくやろうよー」という認識が近いのかも知れませんが、それは善眼だと。
漢字を眺めて、そこから様々な意味や働きを引き出している思考のテーブルを、腰かけて静かにみつめている意識。
対象として認識した時点で、「慈眼」という意識から分離してしまってる。
だから、どうする?
を越えた意識。
今朝の私という世界に起きた思考です。
寝る前に読み、朝再び読むと、少し考えが浮かびます。眠っている間に、何かが起こってるのかも知れません。
今日も1日、時々思い出しては、意識の中で転がしてみます。誰かの前に立って、それを説明しているイメージで。
何て言えば、分かりやすいだろう?
誰かに伝えたいという欲求が、私という下地には流れてるようです。
今日も、ありがとうございます。
森井先生が、みんな着いてきてるかな?って先頭から振り返ってる姿が見える気がします。後ろにいる私にも、その目は届いてる。
ほんとの「慈眼」は、思いやる愛そのものなのかも知れませんね。今日もありがとうございます。
お盆はお陰様で、過去最大にお店が忙しく、その余韻はまだ続いてるいます。今日は久しぶりのお休み。身体が疲弊しているのを感じますので、何もせずこうしてコメントを書いています。
雨が降って、少し涼しくなりました。雨の被害にあわれた方々にお見舞い申し上げます。夜には虫の音が聴こえます。秋が確かに、近付いています。
ありがとう御座います😃
②他者や動植物に対する「愛を実践」する。
③自然界や神に対する「愛を実践」する。
自分を含めたこの三者に対する「愛」を、「実践」することが
生きる目的だと考えています。
そのためには、「慈眼」が必要なこと、そして「慈眼」を養うことが肝要だと思っています。
今を生きる(中今を生きる)ことで、天地からのエネルギーを最大に受けられ、勇気もらえて、愛を実践する事ができると考えています。
賢者のアフォリズムが、このサイトにはよく出てきますが、
最近急速に、興味がなくなりました。
言葉を離れた愛を、今は模索し始めているのかもしれません。
今、酒を飲んで煙草を吸いながら、書いています…。
昨日もそうだった(泣)
月に一回くらい、こうなる…(泣)
情けないが、もう今月で、飲酒と喫煙はやめようと思っています。…(あのさあ、勝手にしろよ…)
「善」とか「悪」とかというものが
存在しているわけではなく
それはジャジメント=観念の世界で
ただ「ある」があるのみ。
ただしその「ある」というものも
3Dの地球世界に於ける「ある」ではなく
その視点からすれば
寧ろ「ない」に近い「無」とか「空」などと表現される状態。
それでも「虚」ではなくて
「愛」である(と)。
「慈眼」という言葉・観念を生じさせているのも「愛」あればこそ。
確かに宇宙には「悪」と言わざるを得ないような低い(=粗野な)波動の存在はあるけれど。
「酒」や「煙草」は人体にとって「悪」と言えなくもないかもしれませんが
その存在自体が「悪」ではなく
使用の仕方で摂取者以外の他者に対しての迷惑行為を付随させかねないことを指して「悪」となしているというだけのこと。
「酒」や「煙草」の存在自体は「愛」。