nādatte kasyacit pāpaṃ na caiva sukṛtaṃ vibhuḥ
ajñānenāvṛtaṃ jñānaṃ tena muhyanti jantavaḥ 5.15

「遍在者(主)は誰の善も誰の悪も受け取らない。知識が無智に覆われるので、人々は迷う。(15)」



IMG_8923



続きです。


大師は、
高弟アーナンダに次のように伝えます。
「アーナンダよ。
人は、チュンダの料理のせいで私が亡くなったとチュンダを責めてしまうだろう。
でもそれは正しくない。
私は、チュンダの料理を最後の供養に選んだのだ。
私の生涯では、
二つの優れた供物が捧げられた。
この二つとも等しくとても優れた果報があり、
大いなる功徳があった。

その優れた二つの供物とは何かわかるか?

一つは、スジャータが持ってきてくれた粥であり、
それによって私は無上なる悟りの境地を達成した。

そしてもう一つが、この度のチュンダの料理である。
これによって私は涅槃の境地に入ることが出来る。

アーナンダよ、
もしもチュンダを憎むような者が現れたら、
チュンダは善き行いをしたことをよく諭すのだ」。



スジャータの粥とは、
大師が
六年間に及ぶ厳しい苦行によって体力の限界に達し、
ネーランジャー川で沐浴していたときに、
村に住む若い女性スジャータが持ってきたものです。

この粥によって、
師は体力を回復し、
そのまま菩提樹の元に座り、
悟りを開くことになりました。


一般的な社会的な感覚だと、
やせ衰えた人に粥を提供したことは「善」であり、
高齢者に毒キノコを誤って食べさせて、
それがきっかけで死に至らしめたことは「悪」とみなされます。


でも大師は、
悟りへ導いた供物と涅槃に導いた供物を
等しく尊い供養として、
その功徳を讃えたのです。


そして大師は、
沙羅双樹の樹下で最後の時を迎えます。





この話は、
超越した意識では
すべての事象を
善眼と悪眼を超越した「慈眼」で観ているという良い例です。



しかしながら、
普通の人においては、
この超越意識、
いわゆる悟りの境地は
無智という厚い雲によって覆い隠されています。

自分の本性である真我は
超越意識であることを知れば、
行動する領域からは超越していることを
自ずと理解する境地に至り、
完全な自由を獲得します。

そこではもう、
無智という雲は消え去り、
迷うこともなくなります。


無智によって、
この真理が覆い隠された状態のままでは、
行動そのものに巻き込まれ、
善と悪に翻弄されることになります。




「美麗高雅な白蓮華が泥水に染まらないように、あなたも善悪の両者に穢されることはない」(スッタニパータ/サビーヤという修行者が釈迦大師を賛美して言った言葉)



次は
「真我を知って無智を破壊した時、彼等の知識は太陽のように、至高者を照らし出す。(16)」








今日もありがとうございます。
ブログランキング参加しています。
応援クリックお願いします。


人気ブログランキング