nādatte kasyacit pāpaṃ na caiva sukṛtaṃ vibhuḥ
ajñānenāvṛtaṃ jñānaṃ tena muhyanti jantavaḥ 5.15
「遍在者(主)は誰の善も誰の悪も受け取らない。知識が無智に覆われるので、人々は迷う。(15)」
大師は、
高弟アーナンダに次のように伝えます。
高弟アーナンダに次のように伝えます。
「アーナンダよ。
人は、チュンダの料理のせいで私が亡くなったとチュンダを責めてしまうだろう。
でもそれは正しくない。
私は、チュンダの料理を最後の供養に選んだのだ。
人は、チュンダの料理のせいで私が亡くなったとチュンダを責めてしまうだろう。
でもそれは正しくない。
私は、チュンダの料理を最後の供養に選んだのだ。
私の生涯では、
二つの優れた供物が捧げられた。
この二つとも等しくとても優れた果報があり、
大いなる功徳があった。
二つの優れた供物が捧げられた。
この二つとも等しくとても優れた果報があり、
大いなる功徳があった。
その優れた二つの供物とは何かわかるか?
一つは、スジャータが持ってきてくれた粥であり、
それによって私は無上なる悟りの境地を達成した。
そしてもう一つが、この度のチュンダの料理である。
これによって私は涅槃の境地に入ることが出来る。
それによって私は無上なる悟りの境地を達成した。
そしてもう一つが、この度のチュンダの料理である。
これによって私は涅槃の境地に入ることが出来る。
アーナンダよ、
もしもチュンダを憎むような者が現れたら、
チュンダは善き行いをしたことをよく諭すのだ」。
もしもチュンダを憎むような者が現れたら、
チュンダは善き行いをしたことをよく諭すのだ」。
スジャータの粥とは、
大師が
六年間に及ぶ厳しい苦行によって体力の限界に達し、
ネーランジャー川で沐浴していたときに、
村に住む若い女性スジャータが持ってきたものです。
この粥によって、
師は体力を回復し、
そのまま菩提樹の元に座り、
悟りを開くことになりました。
大師が
六年間に及ぶ厳しい苦行によって体力の限界に達し、
ネーランジャー川で沐浴していたときに、
村に住む若い女性スジャータが持ってきたものです。
この粥によって、
師は体力を回復し、
そのまま菩提樹の元に座り、
悟りを開くことになりました。
一般的な社会的な感覚だと、
やせ衰えた人に粥を提供したことは「善」であり、
高齢者に毒キノコを誤って食べさせて、
それがきっかけで死に至らしめたことは「悪」とみなされます。
やせ衰えた人に粥を提供したことは「善」であり、
高齢者に毒キノコを誤って食べさせて、
それがきっかけで死に至らしめたことは「悪」とみなされます。
でも大師は、
悟りへ導いた供物と涅槃に導いた供物を
等しく尊い供養として、
その功徳を讃えたのです。
悟りへ導いた供物と涅槃に導いた供物を
等しく尊い供養として、
その功徳を讃えたのです。
そして大師は、
沙羅双樹の樹下で最後の時を迎えます。
沙羅双樹の樹下で最後の時を迎えます。
この話は、
超越した意識では
すべての事象を
善眼と悪眼を超越した「慈眼」で観ているという良い例です。
超越した意識では
すべての事象を
善眼と悪眼を超越した「慈眼」で観ているという良い例です。
しかしながら、
普通の人においては、
この超越意識、
いわゆる悟りの境地は
無智という厚い雲によって覆い隠されています。
普通の人においては、
この超越意識、
いわゆる悟りの境地は
無智という厚い雲によって覆い隠されています。
自分の本性である真我は
超越意識であることを知れば、
行動する領域からは超越していることを
自ずと理解する境地に至り、
完全な自由を獲得します。
そこではもう、
無智という雲は消え去り、
迷うこともなくなります。
超越意識であることを知れば、
行動する領域からは超越していることを
自ずと理解する境地に至り、
完全な自由を獲得します。
そこではもう、
無智という雲は消え去り、
迷うこともなくなります。
無智によって、
この真理が覆い隠された状態のままでは、
行動そのものに巻き込まれ、
善と悪に翻弄されることになります。
この真理が覆い隠された状態のままでは、
行動そのものに巻き込まれ、
善と悪に翻弄されることになります。
「美麗高雅な白蓮華が泥水に染まらないように、あなたも善悪の両者に穢されることはない」(スッタニパータ/サビーヤという修行者が釈迦大師を賛美して言った言葉)
次は
コメント
コメント一覧
毎日とても楽しみにしています。そして、とてもワクワクしています。
写真は、水輪での朝日ですね❗️
この朝日のように、雲が払われて、「慈眼」を体感出来る日が来るのでしょうか?
今は、分からなくても以前のようにはガッカリとすることなく
分からないことが分かっていく、知らなかったことを知っていける喜びの方が強いです。
サビヤのところも読んでみます!
先生のヒントをもとに、ちょっとづつ学びます^_^
字が読めて、書ける事を本当に嬉しく思う毎日です。
勉強が出来ない子だと言われた子供時代でしたが、
読み書きが出来きたら充分^_^
ひかたまの皆さまのコメントにも、元気をもらっています。ありがとうございます♪
気温も変わりやすい時期、皆さまご自愛ください🙏❤️
善と悪で ジャッジしない
生きている人間にとって
究極の事だと思われますが。
それさえも 許せたり超えられるならば
この世に
許せないこと
超えられないことなど
何もないですね。
人の心の真実を受け取り
神にゆだねて 涅槃に旅立つ
あまりの事に 驚き
心の深さに
涙がとまりませんでした。
人には寿命があるので、さして問題にされない。癌は切り離せばいいという社会です。
争いの心をたどっていくと生存欲求ですから、生命が脅かされることが最も脅威、
ということを個人的にも認識できます。
生死を超えた慈眼というのは、良い例えです。
「慈眼」というのでしょうか?
ごみの収集車に、ごみを入れているのを、ボーっと眺めていたら、慈しみの心が湧いてきました。
その後すぐに、外出で、バスに乗ってくる人、見る人、見る人、バスの外を見ても、歩いている人にも慈しみの心が、これは何!?と、びっくり仰天したことがあります。
正に慈しみの心としかしか言いようのない思いが湧き出てくるのでした。
周りの空気も、少し、色がついていたような。
この時期、ごみの事で、悩んでいました。そして、出かける前に、
ごみの作業人が、太った體でゆっくりと無心で、作業しているのを見たのです。
作業している人に、罪、責任はない、作業してくれることに有難い事、という、認識が自分にできたからなのかと思いました。それは、決して、意識して浮かんだわけではなく、今、分析してみての事です。
そういう、何等かの今までの体験をプラスして、読ませていただいていますが、無心というのが、如何に大切なことかと思います。
無心=、本音、集中、と解釈してます。
言葉と、気持ちが一致してない言葉を聞くと違和感を感じます。
啓蒙、人を感動させるには、先ず、言葉と、行動と、意識を一致させるのが必要と思っています。
たとえ、悪い言葉でも、本音で言うと、そのことで自分も、相手も傷つき、もう言わなくなるとか変化します。結果、善悪の言葉(行動)はない。?
良い言葉なら、感動し、自分も、相手も幸せになり、啓蒙され、どんどん、善循環して、本人も悟りに近づくのを実感できるのではと思います。
なので、本音、本心を出し生活することが大事と思っています。そうできるときは、瞑想中と同じような脳波と思います。
又、お釈迦様ほどの方は、チュンダが、無心であること、毒があることも、自分があちらに行く時期もお解りであったと、思われます。
予想でしかないですが、こうして聖言にふれさせていただいているうちに、そんな風に思う事はできるようになりました。
いまだに過去や現在を嘆いている事が多い私には、それだけでも救われています。
本当に稀な得難い機会をいただいています。
いつもありがとうございますm(_ _)m
2つの供物の違いについて 考えてみました。
あくまでも、私見なのでご了承下さい。
一つ目の悟りとは、人間は愚かな者である。しかし、この愚かな人間を人の愛で生かされるということを知る。つまり、愛を受け取られた
2つ目は、死に至らしめる 悪 とみなされるものであっても、チュンダの愛を受け取られたのだと思います。
これが、善悪 に囚われずに、本質を見抜き、そのままの純粋な愛を歪めることなく純粋な愛として受け取る。究極の学びであると思いました。
「慈眼」で観る ということだと理解しました。
真の理解には、まだまだ程遠い遠い私ですが、ひかたまブログに出会えて良かったです。励みです。これからも、なんとか追いかけていきます。毎回ありがとうございます。