jñānena tu tad ajñānaṃ yeṣāṃ nāśitam ātmanaḥ
teṣām ādityavaj jñānaṃ prakāśayati tat param 5.16
「真我を知って無智を破壊した時、彼等の知識は太陽のように、至高者を照らし出す。(16)」
神の霊光を物質世界の光に喩える例は、
聖書でも随所に出てきます。
聖書でも随所に出てきます。
ここに一部を紹介しますので、
まずは、
ゆっくりと味わってみてください。
まずは、
ゆっくりと味わってみてください。
「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光は闇の中に輝いている。そして、闇はこれに勝たなかった」(ヨハネによる福音書1:4-5)
「神は光であって、神には少しの暗いところもない」(ヨハネの第一の手紙1:5)
「神と交わっていると言いながら、闇の中を歩いているなら、偽っているのであって、真理を行っているのではない」(ヨハネの第一の手紙1:6)
「光は正しい人のために現れ、喜びは心の正しい者のためにあらわれる」(詩篇97:11)
「わが魂よ、主を誉めよ。わが神、主よ、あなたは大いにして誉と威厳とを着、光を衣のようにまとい、天を幕のように張り」(詩篇104:1-2)
「光は正しい者のために暗黒の中にもあらわれる」(詩篇112:4)
「私は世の光である。私に従って来る者は、闇のうちを歩くことがなく、命の光を持つであろう」(ヨハネによる福音書8:12)
「私は、この世にいる間は、世の光である」(ヨハネによる福音書9:5)
「イエスは彼らに言われた、「もうしばらくの間、光はあなたがたと一緒にここにある。光がある間に歩いて、闇に追いつかれないようにしなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのかわかっていない。光のある間に、光の子となるために、光を信じなさい。」」(ヨハネによる福音書12:35-36)
「私は光としてこの世にきた。それは、私を信じる者が、闇のうちに留まらないようになるためである」(ヨハネによる福音書12:46)
「暗闇の中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った」(イザヤ書9:2)
「彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は太陽のように輝き、その衣は光のように白くなった」(マタイによる福音書17:2)
「私は光をつくり、また暗きを創造し、繁栄を創り、また災いを創造する。私は主である」(イザヤ書45:7)
コメント
コメント一覧
本当は光なのかも知れない。
光だけの世界も、闇だけの世界も
究極的には同じ世界で、対を失った世界は
在るも無いも、在るけど無いから。
「闇」や「暗」という漢字には、
どちらにも「音」がある。
どちらも暗いはずなのに、
どちらにも「日」が内在されてる。
光と闇は、対ではなくて
光が内在された「状態」「在り方」のひとつ。
世界は、アニメのセル画みたいだと思うことがある。ひとつの光源に、いくつもの背景が重ねられて、今という世界が現れてる。
瞑想は、一枚ずつ、一枚ずつ、それをめくり
原初の光に立ち返ること。
何となく、そんなことを想ってみたりして。
今日も、ありがとうございます。
何度も読んで、反芻してます。
そろそろ、神の詩の新刊が届きそうですね。
楽しみにしてます。
またギーターの世界が広がった気がしました。
今、「神の詩」を読み返しているのですが、
毎回新しい発見があります。
…というか内容をしっかり覚えてなかった自分にガッカリです。(泣)
いつもありがとうございます。
光の輝きが増して増して増し増してゆくと
質量が重くなりすぎて暗闇となりますよね
ブラックホールのように
そしてそのブラックホールの重力ゆえに
光がどんどんどんどんどんどんと引き込まれてゆき
飽和状態となり耐えきれなくなると
爆発が起こり(と云われてい)ますですよね
光と闇は同源なるものですね
卵が先か鶏が先か‥‥的でもありますが
ただ、闇は暗くて何も見ることができませんし
重くて必然的に冷たいので
動き辛い世界ですよね
両者の性質を鑑みた上でバランスをとってゆくことが理想というか
あるべき状態であると思います。