オーストラリア南東部ビクトリア州政府が、
コアラが増えすぎたとして、
686頭を注射によって殺処分してしまいました。
コアラは昔と比較して生息数が激減し
地区によっては絶滅も危惧されている貴重な動物。
州政府がこの大量殺処分を秘密裏に行ったことで、批判の声が上がっています。
コアラが増えすぎたとして、
686頭を注射によって殺処分してしまいました。

コアラは昔と比較して生息数が激減し
地区によっては絶滅も危惧されている貴重な動物。
州政府がこの大量殺処分を秘密裏に行ったことで、批判の声が上がっています。
コアラの大量安楽死がおこなわれたのは、ケープオトウエイ地域。
オーストラリア本土の一番南側です。
ここのグレート・オトウェイ国立公園はとても美しく素晴らしい場所。
fotocommunity/Von Toni Möckel
安楽死は、2013年9月から14年3月にかけて3回に分けて行われたそうです。
関係者によると、
コアラが過密状態で生息し、エサとなるユーカリの葉が減少。
餓死を回避するため、安楽死以外に選択肢がなかったと証言したそうです。
本当に、安楽死しか方法が無かったのでしょうか?
オーストラリアでは、
コアラが貴重なはずなのですが、
伐採業者たちはコアラが木にいても構わず伐採していくという事実が、繰り返し報道されています。
オーストラリアでは、連邦政府にはコアラを保護する法律は無く、
各州にまかせています。
伐採業者のインタビューでは、
伐採現場でコアラを殺してしまうことは日常的で、
多い時には一時間ごとにコアラが伐採と共に死んでいくと証言しています。
こちらの写真は、伐採時に殺されなかったものの、
住処を奪われてしまったコアラの写真 。
もう生活の場が何も残っていません。
どうやって生きていくのでしょうか。
HuffingtonPost
「コアラ・ホスピタル」 というスーザン・ケリー監督のドキュメンタリー映画があります。
この映画の中で、コアラが一頭一頭丁寧に助けられる様子が描かれています。
監督によると、コアラは「都会の避難民」。
人口増加により、
コアラの森はどんどん伐採され、
道路でも轢かれ、
犬に咬まれ、
行き場を失っている。
このブログでも山火事のコアラたちを助ける様子や
その後の話を書きました。
一頭一頭助ける姿が報道される陰で、
また、
日本でもコアラの赤ちゃんが一頭生まれただけでも大きく報道されている陰で
大量に安楽死されている現実・・・・。
かつてオーストラリア全土で、
推定1000万頭以上生息していたのが、現在推定4万頭。
激減です。
NSW州のユーロボダラ地区のように、
気が付いたらコアラがこのエリアでは最後の一頭になってしまっていた地域もあります。
ABC News
1920年代に南オーストラリア州では、コアラの乱獲により一度絶滅しています。
毛皮がお金になるので、取り放題殺したからです。
このトラックも、コアラの毛皮が満載です。
この一回で一体何匹のコアラが犠牲になったことでしょう。
オーストラリア南部に生息するコアラは、
北部のコアラに比べてはるかに大きく、厚い毛に覆われています。
毛皮には最適だったのです。
Bill Phillips: "The little Australians we'd all hate to lose"
たしかに
毛皮はふさふさ暖かい触り心地です。
毛皮で儲けることが、人生の幸福に繋がるのでしょうか?
お金儲けが、幸せなのでしょうか?
自分も、他人も、そしてすべての生き物も傷つけない生き方が
本当の幸せに繋がるのは明らかです。
それは、自分だけの幸せだけでなく、
すべての命の幸せに繋がっていきます。
よく「殺生をしてはいけない」と言います。
それは、
すべての命は尊いものだから。
すべての生き物には魂があり、命を授けられている。
どのような決断をするにせよ、
まずそれをふまえて物事を考えなければならないと思います。
最後に、 餓死しかけたコアラで思い出すのが、
餓死しかけた虎とお釈迦様の過去世の話。
法隆寺に保管されている玉虫厨子
その須弥座と呼ばれる台座の向かって右側面に
「捨身飼虎(しゃしんしこ)」の図が描かれています。
Wikipedia
この図は、一つの絵に三つの時間が同時に描かれています。
上から、服を脱ぎ、飛び込み、虎の親子に食べられている図。
これは釈迦大師の過去世、
摩訶薩埵(まかさった)太子であった時の逸話を描いたものです。
オーストラリア本土の一番南側です。

ここのグレート・オトウェイ国立公園はとても美しく素晴らしい場所。

安楽死は、2013年9月から14年3月にかけて3回に分けて行われたそうです。
関係者によると、
コアラが過密状態で生息し、エサとなるユーカリの葉が減少。
餓死を回避するため、安楽死以外に選択肢がなかったと証言したそうです。
本当に、安楽死しか方法が無かったのでしょうか?
オーストラリアでは、
コアラが貴重なはずなのですが、
伐採業者たちはコアラが木にいても構わず伐採していくという事実が、繰り返し報道されています。
オーストラリアでは、連邦政府にはコアラを保護する法律は無く、
各州にまかせています。

伐採業者のインタビューでは、
伐採現場でコアラを殺してしまうことは日常的で、
多い時には一時間ごとにコアラが伐採と共に死んでいくと証言しています。
こちらの写真は、伐採時に殺されなかったものの、
住処を奪われてしまったコアラの写真 。
もう生活の場が何も残っていません。
どうやって生きていくのでしょうか。

「コアラ・ホスピタル」 というスーザン・ケリー監督のドキュメンタリー映画があります。

この映画の中で、コアラが一頭一頭丁寧に助けられる様子が描かれています。
監督によると、コアラは「都会の避難民」。
人口増加により、
コアラの森はどんどん伐採され、
道路でも轢かれ、
犬に咬まれ、
行き場を失っている。
このブログでも山火事のコアラたちを助ける様子や
その後の話を書きました。
一頭一頭助ける姿が報道される陰で、
また、
日本でもコアラの赤ちゃんが一頭生まれただけでも大きく報道されている陰で
大量に安楽死されている現実・・・・。
かつてオーストラリア全土で、
推定1000万頭以上生息していたのが、現在推定4万頭。
激減です。
NSW州のユーロボダラ地区のように、
気が付いたらコアラがこのエリアでは最後の一頭になってしまっていた地域もあります。

1920年代に南オーストラリア州では、コアラの乱獲により一度絶滅しています。
毛皮がお金になるので、取り放題殺したからです。
このトラックも、コアラの毛皮が満載です。
この一回で一体何匹のコアラが犠牲になったことでしょう。
オーストラリア南部に生息するコアラは、
北部のコアラに比べてはるかに大きく、厚い毛に覆われています。
毛皮には最適だったのです。

たしかに
毛皮はふさふさ暖かい触り心地です。

毛皮で儲けることが、人生の幸福に繋がるのでしょうか?
お金儲けが、幸せなのでしょうか?
自分も、他人も、そしてすべての生き物も傷つけない生き方が
本当の幸せに繋がるのは明らかです。
それは、自分だけの幸せだけでなく、
すべての命の幸せに繋がっていきます。
よく「殺生をしてはいけない」と言います。
それは、
すべての命は尊いものだから。
すべての生き物には魂があり、命を授けられている。
どのような決断をするにせよ、
まずそれをふまえて物事を考えなければならないと思います。
最後に、 餓死しかけたコアラで思い出すのが、
餓死しかけた虎とお釈迦様の過去世の話。
法隆寺に保管されている玉虫厨子
その須弥座と呼ばれる台座の向かって右側面に
「捨身飼虎(しゃしんしこ)」の図が描かれています。

この図は、一つの絵に三つの時間が同時に描かれています。
上から、服を脱ぎ、飛び込み、虎の親子に食べられている図。
これは釈迦大師の過去世、
摩訶薩埵(まかさった)太子であった時の逸話を描いたものです。
ある日、太子は二人の兄と共に、竹林に入ったところ、
崖の下で7頭の子虎を抱えた母虎が飢えて衰弱しているのを目撃しました。
太子を含む三人兄弟は、
虎の餌を買うことは出来ません。
そこで、太子は
二人の兄が家に帰った後で、
服を脱ぎ、虎たちのエサとして自分の身を捧げたのです。
しかし、
太子のあまりの慈悲の大きさに圧倒されたトラは彼を食べることができません。
そこで太子は、崖から身を投げたのです。
でも、
太子はケガ一つしなかったのです。
やはりトラは畏れ多くて、太子を食べることは出来ません。
そこで、
太子は自らの首を竹で突き刺してから、這ってトラの元へ行き、身を捧げたといいます。
この話は、さまざまな側面からの解釈が可能です。
例えば、
この飢えたトラは、
私たちの心の中に在る「愛に飢えた心」「神を見失った心」の象徴でもあり、
愛に飢えた人々の象徴と解釈することも出来ます。
誰にでも心の中心には、慈悲の心があります。
でも、
大いなる慈悲の心があっても、それを行動にする勇気がなければ、届かないこともあるのです。
聖書、ヨハネの福音書15章13節にも
「人が友のために命を捧げるという、これよりも大きな愛はだれも持っていない。」
とあります。
命を捧げるとは、命を捨てることではなく、命を懸けて誠心誠意行うこと、と解釈しても良いでしょう。
これも愛に加えて、勇気が必要です。
今回のコアラの件でも、
もう少しの勇気と慈悲の心があれば、結果は変わったのかもしれません。
また一つ、このコアラたちの悲劇から、学ぶことがありました。
犠牲になった多くの命が未来に活かせますように。
今日もありがとうございます。
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よろしければ
ぽちっとお願い致します。
崖の下で7頭の子虎を抱えた母虎が飢えて衰弱しているのを目撃しました。
太子を含む三人兄弟は、
虎の餌を買うことは出来ません。
そこで、太子は
二人の兄が家に帰った後で、
服を脱ぎ、虎たちのエサとして自分の身を捧げたのです。
しかし、
太子のあまりの慈悲の大きさに圧倒されたトラは彼を食べることができません。
そこで太子は、崖から身を投げたのです。
でも、
太子はケガ一つしなかったのです。
やはりトラは畏れ多くて、太子を食べることは出来ません。
そこで、
太子は自らの首を竹で突き刺してから、這ってトラの元へ行き、身を捧げたといいます。
この話は、さまざまな側面からの解釈が可能です。
例えば、
この飢えたトラは、
私たちの心の中に在る「愛に飢えた心」「神を見失った心」の象徴でもあり、
愛に飢えた人々の象徴と解釈することも出来ます。
誰にでも心の中心には、慈悲の心があります。
でも、
大いなる慈悲の心があっても、それを行動にする勇気がなければ、届かないこともあるのです。
聖書、ヨハネの福音書15章13節にも
「人が友のために命を捧げるという、これよりも大きな愛はだれも持っていない。」
とあります。
命を捧げるとは、命を捨てることではなく、命を懸けて誠心誠意行うこと、と解釈しても良いでしょう。
これも愛に加えて、勇気が必要です。
今回のコアラの件でも、
もう少しの勇気と慈悲の心があれば、結果は変わったのかもしれません。
また一つ、このコアラたちの悲劇から、学ぶことがありました。
犠牲になった多くの命が未来に活かせますように。
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