今日は、
「君が代」ヒカルランド刊からの抜粋です。
写真は昨日の山です。
瞑想に最適のいい天気でした。
今週は4つの高山を移動し、
調和してきました。
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「君が代」ヒカルランド刊からの抜粋です。
写真は昨日の山です。
瞑想に最適のいい天気でした。
今週は4つの高山を移動し、
調和してきました。
崇高な理想を持つこと、
神を求める心は、何よりも重要です。
私たちは、
我欲にまみれているうちは
制限されたとても小さな存在でしかありません。
我欲が強ければ、
すべての存在とのつながりが断たれてしまうからです。
神を求める心は、何よりも重要です。
私たちは、
我欲にまみれているうちは
制限されたとても小さな存在でしかありません。
我欲が強ければ、
すべての存在とのつながりが断たれてしまうからです。
でも、
崇高な理想を掲げ、
神を求める心を持った時に、
人はとても大きく輝く存在になることが出来ます。
普通の木材も、
神の姿に彫刻され、
そこに
作り手の魂や安置する人の思いが入れば、
人々が敬う価値ある存在になります。
普通の石ころに見える原石も
綺麗に研磨して、
神像に添えられれば、
人々の憧れる宝石になります。
同じ素材でも
崇高な思いが入れば
尊いものとなります。
多くの人が怖がったり嫌うヘビでも、
神と共に在れば
再生と若返りの象徴として崇められ、
WHO世界保健機構を始め世界各地の医療機関でシンボルとして採用されたり、
様々な宗教の中でも神に仕える大切な存在として敬われています。
それらの認識の違いは、
心の在り方が、神と共に在るかどうかです。
すべての人、
そして
すべての存在には地上に来た目的があり、
大きな存在価値を持っています。
その存在価値を小さくしてしまうのが
我欲。
そして
存在価値を明確に際立たせるのは、
神に向かう心、
神を求める心です。
神を求める心が
いつもハートにあるならば、
人はとても大きな存在になれます。
今日もありがとうございます。崇高な理想を掲げ、
神を求める心を持った時に、
人はとても大きく輝く存在になることが出来ます。
普通の木材も、
神の姿に彫刻され、
そこに
作り手の魂や安置する人の思いが入れば、
人々が敬う価値ある存在になります。
普通の石ころに見える原石も
綺麗に研磨して、
神像に添えられれば、
人々の憧れる宝石になります。
同じ素材でも
崇高な思いが入れば
尊いものとなります。
多くの人が怖がったり嫌うヘビでも、
神と共に在れば
再生と若返りの象徴として崇められ、
WHO世界保健機構を始め世界各地の医療機関でシンボルとして採用されたり、
様々な宗教の中でも神に仕える大切な存在として敬われています。
それらの認識の違いは、
心の在り方が、神と共に在るかどうかです。
すべての人、
そして
すべての存在には地上に来た目的があり、
大きな存在価値を持っています。
その存在価値を小さくしてしまうのが
我欲。
そして
存在価値を明確に際立たせるのは、
神に向かう心、
神を求める心です。
神を求める心が
いつもハートにあるならば、
人はとても大きな存在になれます。
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コメント
コメント一覧
「我欲を捨て・・・・、崇高な理想を掲げ、神を求める心を持った時に、人はとても大きく輝く存在になることが出来ます。」というのは、前出のいくつかの記事にもありましたが、人間だから選択できる生き方なんでしょうね。そのような志を持ち続けたいものです。
先生も海外で過ごされたことがあるので感じられたかもしれませんが、日本は「神アレルギー」のようなものが強いような気がします(新興宗教の事件などで特に)。
神社・仏閣などに出向き信仰心のようなものがあるようでないような…、市井の人でご利益ではなく、神様を常に心に置いた生き方をしている方は、海外より少ないような気がします。そうすると拝金主義や物質主義に陥りやすいのでしょうか。喜捨の習慣もあまり見受けられません。
人間が思考では計り知れない大きな力、そして自然や周りに存在しているものによって、生かされているということに、いつも心の意識を置きたいと思います。ありがとうございます。
最近はたまにいろいろな山にも出かけます。
だいたい一日で3~4つの山々を巡ることが多いです。
(⌒-⌒)
冬は足元が悪いので命がけ。
森井先生の神様は、少々お人使いの荒い神様なのですね(笑)
牛の子宮の手当てを見てボロボロと涙が溢れる。
私も丑年で同じ母牛になっちゃったんでしょうね。
人でも牛でも鳥でも山でも樹でも魚でも枯れ葉でもそのものにならなければ同化しなければ本当の気持ちというものはわからないのですね…。
完全にそのものにはなれないかも知れないけれど感じれる心をいつも綺麗にしていたいです。
何日か前にポカポカお日さまに当たっていたら「ただありなさい」という言霊が聞こえてきました。
難しく考えていましたが、少しだけわかったような気が致します。
その中でひかたまブログとの自分なりの関わり方もみえてきました。
ひかたまブログは、
私にとって神社のようなもの。
無料で誰に対しても開かれていて
好きな時に参拝(拝読)しに来て
感謝の気持ち(コメント)を
神主さま(ブログ主の先生)に
置いていく(書く)。
参拝に行かなくなる(ドロップアウトする)のも参拝者の自由意志に委ねられている。
他の参拝者(読者)と足並みを揃えて一緒に参拝する必要もない(休憩は各自のタイミングでとればいい)のかなと。
抽象的な空理空論でない、実践的な体験はまだまだですが、神を求める崇高な思いに向かって歩みを続けていきたいです。
いつもありがとうございます。
氏神様に参拝をしに行くと、いつもより神気が充満しているようでした。
帰り際、参道を下りていると、いきなり風が吹き木々が揺れてどんぐりの実がバチバチバチバチ〜っと落ちてきました。笑
神様が参拝を歓迎して下さったようで勝手に嬉しくなりました。
(それともバチが当たっただけかも知れません。
正神は言挙げせず、、なので、神意は分かりません。)
ギーターが4章に入り、神を求める意志について問われると共に実践的な教えが増えてきました。
私も漸く、神祭りをしている神棚の前で毎朝、
「大祓詞」を奏上することが出来るようになりました。
身体が楽器みたいになりますね。
これまでは内なる神に向かう意思もままならず、どうしても唱えることが出来なかったのです。
とはいえ……
イエス様が弟子に求めた条件。
「誰でも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、
さらに自分の命までも捨てて、
わたしのもとに来るのでなければ、
わたしの弟子となることはできない。」
この、真我を求めるなら直ちに迷妄を寸断せよ。
と言わんばかりの、疑念や質問の余地さえ与えない言葉を前にすると………
やっぱり真我を求める覚悟がまだまだのようです。😅
いつもありがとうございます。