台湾南部の台南市から車で約一時間ほど行ったところに
烏山頭ダム(うさんとうダム)
があります。

台湾初期のダムの一つで、
米国のフーバー・ダムが完成するまでは
世界最大のダムでした。

東京都の水がめの一つである狭山湖の
7倍以上の大きさです。

上空から見ると
ダムの湖は緑色の珊瑚のように見えるため、
珊瑚湖と呼ばれています。


このダムの北岸には
日本人土木技師、八田與一(はった よいち)さん(1886~1942年)の銅像

その後ろに
八田さんご夫妻のお墓があります。


この銅像は、
烏山頭ダム完成後の1931年に
このダムを造った八田與一を敬愛する地元の人たちが製作したものです。

座っている姿にしたのは、
銅像の設置を固くなに辞退していた八田さん本人の意向を汲んで、
威圧的な態度にも見える立像にするのを辞めて
ダムの建設中によく見られた困難に一人熟考し苦悩する八田さんの姿に決められました。
碑文や台座も作らずに
地面に直接設置されました。

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この銅像は、
一度消えてなくなり
その後
お墓の前に再び設置されました。


昨年には、
この八田與一像の頭部を元台北市議が切断して逮捕される事件も起きてます。


その後
八田與一さんの命日に合わせて行われた没後75年の慰霊祭までに
銅像は修復されました。



現在では台湾を代表する穀倉地帯となっている嘉南平野は
昔は、水利が悪く、農作物が上手く育てられない問題の地域でした。

降水量は、
年間2,000ミリを超える豊かさであったにもかかわらず
中央山脈から海岸線まで水は一気に河川を通って流れるために、
雨期にはひどい洪水が多発する川となり、
乾期には川底も干上がるほどの水不足に陥る川でした。

そのため、
農業生産も不安定で、
安定した収穫は見込めなかったのです。


日本統治時代に台湾の土木技師であった八田與一さんは、
この嘉南平野に安定した水供給をすることができれば、
この地を豊かな農業発展地域へと発展させることができる
と考えました。

そこで彼は
「嘉南平野開発計画書」を作り、総督府に提出。

その計画には、
烏山頭に満水時の貯水量1億5,000万トンという当時世界一の規模のダムを造り、
そこから嘉南平野全体に総延長1万6,000kmという長さの給排水路を張り巡らす
さらに
給水門、水路橋、鉄道橋など、200以上もの構造物を同時に建設する
という壮大な計画が書かれていました。


建設予算は
当時の台湾総督府の年間予算の1/3以上に及ぶ大規模なもので、
地元からも期待されていた大事業でした。


八田さんは
3年間かけて現地調査と測量を入念に行い、
さらに
ダム建設の先進国であった米国に赴き、
計画を検討し
さらに
最新鋭の土木機械を買い集めてまわりました。


それら最新鋭の機械は
現場では八田さんしか知らないものばかりでした。

建設現場の日本人も台湾人も、
初めて見る機械であり、
どう使っていいのかさえわからない状態から始まりました。

米国の技師が機械と同行していましたが
プライドが高く、現場の人間には使い方を教えなかったそうです。

八田さんは、
「見よう見まねで使い方を習い、米国人の鼻を明かせてやろう」
と現場の人間たちに言って激励し続けたとのこと。


工事の規模がとても大きいために
工事現場作業員とその家族は、
2000人を超えて
町となり
病院や学校も作られました。


工事は
すべて順調にいったわけではありません。


烏山嶺を超えてダム湖に曽文渓の水を引くために行ったトンネル工事では
トンネルを掘り進んだ場所から石油が噴出して、
その石油ガスに灯油のランタンの火が引火して大爆発してしまう惨事が発生。
日本人と台湾人合わせて50余名の死者が出てしまいました。


この時も八田さんは
事故現場で陣頭指揮を執り、
二度と事故が起こらないように原因究明に尽力し、
日本人と台湾人を区別することなく犠牲者の遺族たちへのお見舞いに奔走しました。

八田さんにとって
建設現場で働く人たちは
家族同然だったのです。


爆発事故の翌年には関東大震災が発生し
予算は削減され、
そのために作業員の約半数を解雇せざるを得なくなりました。

この時に
八田さんは、
有能だった作業員たちはすぐに再就職が可能だと考えて、
有能な作業員たちから解雇し、
彼らの再就職先の世話にも奔走していました。


こうした幾多の困難を乗り越えて、
10年を費やして工事が完成しました。

15万ヘクタールという広大な土地には
総延長1万6,000kmという長さの給排水路に給水されて
水がいきわたるようになりました。


これによって
嘉南平野は台湾最大の穀倉地帯となりました。
ここにいる地元の農民たちは、
生活が安定し、繁栄することになりました。

八田さんの人生をかけた大プロジェクトは
多くの困難も乗り越えて
実を結んだのです。





烏山頭ダムの完成後は、
八田さんは台北に戻りました。

その後、
技師として最高の官位である勅任官待遇を与えられています。

さらに彼は
台湾のさらなる発展を願い、
台湾で最初の民間学校「土木測量技術員養成所」を創立。
この学校はその後も発展を続けて
現在の「瑞芳高級工業職業学校」に至っています。


その後
八田さんは
56歳の時に
フィリピンでのダム建設計画に参加するために
船でフィリピンで行くことになりました。


八田さんを乗せた船は
航海中の五島列島沖で
米国の潜水艦の雷撃を受けて、
撃沈されてしまいました。

彼の遺体は
撃沈から一ヶ月以上経ってから
山口県萩市沖合の見島で発見されました。



その後
台北にいた妻の外代樹さんと子供たちは、
台北での空襲がひどくなったために
烏山頭ダムの建設工事で使われていた職員宿舎に疎開しました。


そして

戦争が終結して約2週間後の9月1日の未明に、

妻の外代樹さんは
黒の喪服に白足袋に正装して
烏山頭ダムの放水口に身投げして

この世を去りました。

陰から支え続けてきた外代樹さんは
どれだけの大きな負担があったことでしょうか・・。




嘉南の農民たちは、
自分たちのために尽力してくれた八田夫妻のために
日本の黒御影石を苦労して取り寄せて、
日本式の墓をダムの北側に建てました。

それ以後、
毎年八田さんの命日5月8日には
慰霊追悼式が催されています。



戦争末期には
金属類を提供しなければならない時期があり
一時期、銅像は盗まれて姿を消していたのですが、
戦後になって、
地元の人が
政府に取られないように大切に隠していたことがわかりました。

そして
その銅像は
昭和56年になって、
あらためて墓前に設置されたのです。



台湾の田舎に静かにたたずむ銅像の日本人は
人生をかけて台湾の発展に貢献し
地元の人々から尊敬されていた人だったのです。




「一心に思い願うことは
必ずかなえられます。
自分が本当にやるべきことを心に決めて
それを実現する気持ちを強く持ち続ければ
目的は必ず達成できるでしょう。」
道元


「日本の仏教には、さまざまな宗派があり、さまざまな教えがあります。
それらを集約すると、たった一つのことになります。
それは、
「我」を捨てて、
「他」のため物事を成し、
「私」から離れること、
です。」
叡尊






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