人は
傷心によって死ぬことがあります。
ネ・ペルセ族(ネズパース族)は、
現在の米国アイダホ州に住んでいた平和な先住民族でした。
amertribes.proboards.com
この部族は
動物たちにも植物たちにも優しいことで有名ですが、
誰に対しても友好的で優しく、
入植してきた白人にもとても寛大で
かつては
困った白人たちを他部族から護衛してあげたり、
庇護を求めて逃げ込んできた白人を保護してきました。
一人の白人も殺したことはありませんでした。
ところが、
1855年に
合衆国政府は
突然
ネ・ペルセ族に 土地を分割して
合衆国政府に渡せと通告してきました。
ネ・ペルセ族は
この不当な申し出に対しても
同意し
彼らの土地を白人に分けてあげました。
彼らネ・ペルセ族が
はじめて白人と出会ったのは1805年、
ルイスとクラークの探検隊が部族の土地に立ち寄った時です。
この時の印象を、ルイスは、
「驚くほど気立てが優しく、穏やかで落ち着いた部族である。」
と書き残しています。
(ルイス・クラーク探検隊については、
ひかたま:信頼し合う関係:先住民女性サカジャウィア
を参照してください)
でも
この友好関係が一方的に崩れる出来事が起こりました。
1860年に
この部族の住む土地に金鉱脈が見つかったのです。
すべての金を奪うために
1863年には
合衆国政府は
ネ・ペルセ族のすべての土地を合衆国政府に明け渡すよう
そして
先住民たちは、合衆国指定の先住民保留地へ移動するよう
一方的に命令してきました。
図の紫色がネ・ペルセ族の生活していた領域。
黄色の小さな場所が
合衆国が指定した保留地。
ducksters.com
今の日本で当てはめて
比喩で表現してみると、
米国が日本の国土を利用したいから
「日本人をすべての先祖代々の土地を放棄して四国だけに移住しろ
そして
従わなければ皆殺しにする」
といったようなものでしょうか。
あまりに理不尽な要求です。
ネ・ペルセ族には
高地にすむ部族と低地に住む部族がいました。
高地のネ・ペルセ族は
保留地が自分たちの住む土地の一部だったこともあり、
大人しく土地を明け渡し
保留地へと移動しました。
しかしながら、
低地に住むネ・ペルセ族は、
合衆国政府のあまりに理不尽な要求に納得することなく
拒否。
そして白人との戦いが始まります。
1873年になって
ネ・ペルセ族の若き酋長ジョセフは、
合衆国大統領に
自分たちの土地を守る権利を直訴しました。
いままでこの先住民部族は
数多くの白人たちを助けてきた功績を認めて
土地の一部を先住民が今まで通りに維持することで合意しています。
これに対して
1875年には合衆国政府は、
2年前の合意を一方的に反故にして
先住民たちの土地に白人の入植を許可してしまいます。
さらに
先住民族たちには
30日以内に保留地へと移動する旨の強制命令が
一方的に下されました。
命令に従わない場合、
合衆国は軍隊を送ることを宣言。
これは
部族の殲滅作戦を意味しています。
ネ・ペルセ族は話し合いをして
一部のリーダーや戦士たちは白人と徹底抗戦するよう意見しましたが、
若い酋長ジョセフは、
たった100人ほどの戦士たちで
武装した数千人規模の合衆国の軍隊を打ち負かすことはできないと判断し、
自分たちの土地を捨てて
保留地へと移動することを選びました。
苦汁と屈辱の選択でした。
arc.lib.montana.edu
ところが
たった30日で
すべての人や家畜、そのほかを保留地まで移動するのは
ほぼ不可能。
女性や子供たち、老人たちもたくさんいるのです。
それに加えて
白人たちが彼らの移動中にも
財産や家畜を次々と強奪していったのです。
強欲で心無い白人たちの強奪に耐えかねた先住民の数名の戦士が
白人の襲撃に対して応戦してしまいました。
これが
合衆国政府にとっては
先住民たちを殺戮・排除するよい口実となりました。
これを口実に
直ちに
合衆国政府は、
軍隊を現地に派遣し
ネ・ペルセ族討伐作戦を開始。
最初の戦闘は、
平和主義のネ・ペルセ族の強さを知らず、
合衆国騎兵隊の惨敗。
優秀な酋長ジョセフの作戦勝ちでした。
この戦闘の間に
先住民たちは女性や子供、高齢者たちを先に逃がすことに成功しました。
dreamerhorsefarm.com
そして
彼らは、
自分たちの土地に戻って戦いを続けるのか
新たな土地へと逃避行するのか
重大な決断が迫られました。
ただし
合衆国政府軍はすでに強大な軍事力であり、
少数の先住民族が到底太刀打ちできるはずはありません。
彼らは
新たな土地へと逃げる決断をします。
かつて
スー族がたどったように・・・。
途中、
別の先住民族のテリトリーがあるので
助けてくれることを期待しました。
逃避行の途中のキャンプでは、
白人たちの奇襲に遭い、
無抵抗だった女性や子供たちを次々と殺害されていきました。
ネ・ペルス族は
かつて自力で生活すらできない白人たちを優しく助け続けた民族。
それが
助けた白人たちに虐殺されていく・・・・
このころには
ネ・ペルス族の酋長ジョセフは、
好戦的に襲撃してこないこと、
彼の勇気、
知略に富んだ指導力が高く評価され、
白人たちからも敬意を表され「レッド・ナポレオン」と呼ばれるようになりました。
当時、先住民たちは
白人がホワイトマンと呼ばれたように
先住民はレッドマンと呼ばれていたのです。
レッド・ナポレオンとは、
先住民のナポレオンという意味です。
そして
生き延びた先住民たちは、
かろうじて
別の先住民族の部落へたどり着きました。
ところが、
その部族は、白人の報復を怖れて
各地の先住民族たちは
援助を拒否。
援助すれば、
自分たちの部族まで合衆国の軍隊に皆殺しに合うことは明白だったからです。
絶望的となったネ・ペルス族の生き残りたちは、
一路、2700kmも北のカナダへと逃げることを決意します。
すでに食料も無く
充分な冬の備えも無く
とても険しい道のりを進むしかありませんでした。
このころには
合衆国政府は
悪い前例を作らせないために、
逃避中のネ・ペルセ族を皆殺しにすることを考えていました。
そして
カナダ国境まであと少しというところで
合衆国の軍隊が追い付き
最後の戦闘が始まりました。
ここで
大勢の合衆国軍隊に完全に包囲されてしまいます。
先住民たちの多くのリーダーたちは
殺されました。
若い人たちの指導者的存在であった
酋長ジョセフの弟もこの場で殺害されました。
酋長ジョセフは、生き延びた数少ない仲間の命を守るために
ついに降伏することを決意します。
nimiipuu.com
酋長ジョセフは、
合衆国軍の将軍を前に降伏を宣言します。
「私は戦いに疲れた。
リーダーや戦士たちは死んだ。
老人たちもみな死んだ。
この寒さで、我々は毛布すら持っていない。
幼い子供たちは凍え死のうとしている。
先に遠くへ逃げた者たちも食料も毛布も、何も持っていない。
この環境では寒さと飢えで死んでしまうだろう。
私たちは、降伏するが、凍える子供たちを探し出す時間が欲しい。
太陽が昇ったこの日から、
私は
もう
永遠に
戦いをしない。」
amazon.com
こうして
その場にいた先住民全員が捕虜となり、
大佐の計らいで
元々住んでいた土地の近くの保留地へと移動することが決まりました。
でも、
その約束もあっさりと反故にされ、
過酷な環境だったカンサス州の保留地へと送られました。
かつては
優しく、手厚く保護してあげていた白人たちに
理不尽な仕打ちを受け続け、
さらに
この絶望的な状況下においても
最後まで
裏切られ続けてしまったのです。
そして、
多くのネ・ペルス族たちは、
その地の悲惨な環境で病気となり次々と死んでいきました。
酋長のジョセフは、
合衆国政府へ
ネ・ペルス族の窮状を訴えましたが
ことごとくこれは無視されました。
1883年になって、
この件が報道機関によって報道されたことから
生き残ったネ・ペルス族は米国国民の同情を集め、
故郷へと帰ることが許されました。
ただし
故郷へ帰ることが出来たのは
ほんの一部の先住民だけ。
合衆国政府も
マスコミにアピールするための形だけのものでした。
実際には見せしめのために
半分以上は危険人物として
別の保留地へと送られてしまいました。
1904年
ジョセフは、失意のどん底にいたまま、
死の直前まで、
故郷に戻ることを懇願し続けたまま
その場所で
息を引き取ります。
彼の死亡診断した医師は、
診断書の死因の欄に
「傷心Broken Heart」
と記載しています。
ジョセフの心の中が
いかに辛いものだったのかを
その医師はとてもよく感じていたのでしょう。
酋長ジョセフは、
その勇気と強く的確な指導力から
「レッド・ナポレオン」と称されましたが、
最後も
セントヘレナ島で失意の中で死んでいったナポレオンのように
酋長ジョセフもまた、
失意の中で
この世を去りました。
傷心によって死亡した先住民たちは
無数にいます。
どれだけ多くの人たちが
傷心の中で亡くなっていったことでしょう。
私も過去の記憶を持ったまま今回も来ているので
いまだに
つらく悲しい気持ちを感じます。
日本では明治時代末期のころのお話です。
(日本でもアイヌ民族に対して
同様のことをおこないました・・・)
いまだにこのような迫害は
世界各地の先住民に対して
続いているのが
現実です。
アマゾン奥地にすむ先住民族の中には
石油や金の採掘場となってから
突然消えた部族もあります。
ほとんど報道されることはありません。
私たちが
文明を享受し、
無駄にエネルギーを浪費する限り
このような民族虐待に加担していることになるのです。
311の後に
ほんのわずかな期間だけ
エネルギーを大切に使おうという気運が日本にもありました。
でものど元過ぎたら
もう忘れています。
もう
これ以上
「傷心による死」
を増やしてはいけない。
今日もありがとうございます。
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傷心によって死ぬことがあります。
ネ・ペルセ族(ネズパース族)は、
現在の米国アイダホ州に住んでいた平和な先住民族でした。

この部族は
動物たちにも植物たちにも優しいことで有名ですが、
誰に対しても友好的で優しく、
入植してきた白人にもとても寛大で
かつては
困った白人たちを他部族から護衛してあげたり、
庇護を求めて逃げ込んできた白人を保護してきました。
一人の白人も殺したことはありませんでした。
ところが、
1855年に
合衆国政府は
突然
ネ・ペルセ族に 土地を分割して
合衆国政府に渡せと通告してきました。
ネ・ペルセ族は
この不当な申し出に対しても
同意し
彼らの土地を白人に分けてあげました。
彼らネ・ペルセ族が
はじめて白人と出会ったのは1805年、
ルイスとクラークの探検隊が部族の土地に立ち寄った時です。
この時の印象を、ルイスは、
「驚くほど気立てが優しく、穏やかで落ち着いた部族である。」
と書き残しています。
(ルイス・クラーク探検隊については、
ひかたま:信頼し合う関係:先住民女性サカジャウィア
を参照してください)
でも
この友好関係が一方的に崩れる出来事が起こりました。
1860年に
この部族の住む土地に金鉱脈が見つかったのです。
すべての金を奪うために
1863年には
合衆国政府は
ネ・ペルセ族のすべての土地を合衆国政府に明け渡すよう
そして
先住民たちは、合衆国指定の先住民保留地へ移動するよう
一方的に命令してきました。
図の紫色がネ・ペルセ族の生活していた領域。
黄色の小さな場所が
合衆国が指定した保留地。

今の日本で当てはめて
比喩で表現してみると、
米国が日本の国土を利用したいから
「日本人をすべての先祖代々の土地を放棄して四国だけに移住しろ
そして
従わなければ皆殺しにする」
といったようなものでしょうか。
あまりに理不尽な要求です。
ネ・ペルセ族には
高地にすむ部族と低地に住む部族がいました。
高地のネ・ペルセ族は
保留地が自分たちの住む土地の一部だったこともあり、
大人しく土地を明け渡し
保留地へと移動しました。
しかしながら、
低地に住むネ・ペルセ族は、
合衆国政府のあまりに理不尽な要求に納得することなく
拒否。
そして白人との戦いが始まります。
1873年になって
ネ・ペルセ族の若き酋長ジョセフは、
合衆国大統領に
自分たちの土地を守る権利を直訴しました。
いままでこの先住民部族は
数多くの白人たちを助けてきた功績を認めて
土地の一部を先住民が今まで通りに維持することで合意しています。
ところが
この土地から金鉱石がたくさんとれることが知られると、
この土地から金鉱石がたくさんとれることが知られると、
その途端に
白人たちが金の採掘を目指して
白人たちが金の採掘を目指して
ネ・ペルセ族の土地に踏み入り、
先住民の馬や家畜などを強引に奪いとっていきました。
そして
金採掘のためにネ・ペルセ族を排除しようと
地元の政治家たちが
地元の政治家たちが
先住民に不利な嘘の話をでっちあげてきました。
これに対して
1875年には合衆国政府は、
2年前の合意を一方的に反故にして
先住民たちの土地に白人の入植を許可してしまいます。
さらに
先住民族たちには
30日以内に保留地へと移動する旨の強制命令が
一方的に下されました。
命令に従わない場合、
合衆国は軍隊を送ることを宣言。
これは
部族の殲滅作戦を意味しています。
ネ・ペルセ族は話し合いをして
一部のリーダーや戦士たちは白人と徹底抗戦するよう意見しましたが、
若い酋長ジョセフは、
たった100人ほどの戦士たちで
武装した数千人規模の合衆国の軍隊を打ち負かすことはできないと判断し、
自分たちの土地を捨てて
保留地へと移動することを選びました。
苦汁と屈辱の選択でした。

ところが
たった30日で
すべての人や家畜、そのほかを保留地まで移動するのは
ほぼ不可能。
女性や子供たち、老人たちもたくさんいるのです。
それに加えて
白人たちが彼らの移動中にも
財産や家畜を次々と強奪していったのです。
強欲で心無い白人たちの強奪に耐えかねた先住民の数名の戦士が
白人の襲撃に対して応戦してしまいました。
これが
合衆国政府にとっては
先住民たちを殺戮・排除するよい口実となりました。
これを口実に
直ちに
合衆国政府は、
軍隊を現地に派遣し
ネ・ペルセ族討伐作戦を開始。
最初の戦闘は、
平和主義のネ・ペルセ族の強さを知らず、
合衆国騎兵隊の惨敗。
優秀な酋長ジョセフの作戦勝ちでした。
この戦闘の間に
先住民たちは女性や子供、高齢者たちを先に逃がすことに成功しました。

そして
彼らは、
自分たちの土地に戻って戦いを続けるのか
新たな土地へと逃避行するのか
重大な決断が迫られました。
ただし
合衆国政府軍はすでに強大な軍事力であり、
少数の先住民族が到底太刀打ちできるはずはありません。
彼らは
新たな土地へと逃げる決断をします。
かつて
スー族がたどったように・・・。
途中、
別の先住民族のテリトリーがあるので
助けてくれることを期待しました。
逃避行の途中のキャンプでは、
白人たちの奇襲に遭い、
無抵抗だった女性や子供たちを次々と殺害されていきました。
ネ・ペルス族は
かつて自力で生活すらできない白人たちを優しく助け続けた民族。
それが
助けた白人たちに虐殺されていく・・・・
このころには
ネ・ペルス族の酋長ジョセフは、
好戦的に襲撃してこないこと、
彼の勇気、
知略に富んだ指導力が高く評価され、
白人たちからも敬意を表され「レッド・ナポレオン」と呼ばれるようになりました。
当時、先住民たちは
白人がホワイトマンと呼ばれたように
先住民はレッドマンと呼ばれていたのです。
レッド・ナポレオンとは、
先住民のナポレオンという意味です。
そして
生き延びた先住民たちは、
かろうじて
別の先住民族の部落へたどり着きました。
ところが、
その部族は、白人の報復を怖れて
各地の先住民族たちは
援助を拒否。
援助すれば、
自分たちの部族まで合衆国の軍隊に皆殺しに合うことは明白だったからです。
絶望的となったネ・ペルス族の生き残りたちは、
一路、2700kmも北のカナダへと逃げることを決意します。
すでに食料も無く
充分な冬の備えも無く
とても険しい道のりを進むしかありませんでした。
このころには
合衆国政府は
悪い前例を作らせないために、
逃避中のネ・ペルセ族を皆殺しにすることを考えていました。
そして
カナダ国境まであと少しというところで
合衆国の軍隊が追い付き
最後の戦闘が始まりました。
ここで
大勢の合衆国軍隊に完全に包囲されてしまいます。
先住民たちの多くのリーダーたちは
殺されました。
若い人たちの指導者的存在であった
酋長ジョセフの弟もこの場で殺害されました。
酋長ジョセフは、生き延びた数少ない仲間の命を守るために
ついに降伏することを決意します。

酋長ジョセフは、
合衆国軍の将軍を前に降伏を宣言します。
「私は戦いに疲れた。
リーダーや戦士たちは死んだ。
老人たちもみな死んだ。
この寒さで、我々は毛布すら持っていない。
幼い子供たちは凍え死のうとしている。
先に遠くへ逃げた者たちも食料も毛布も、何も持っていない。
この環境では寒さと飢えで死んでしまうだろう。
私たちは、降伏するが、凍える子供たちを探し出す時間が欲しい。
太陽が昇ったこの日から、
私は
もう
永遠に
戦いをしない。」

こうして
その場にいた先住民全員が捕虜となり、
大佐の計らいで
元々住んでいた土地の近くの保留地へと移動することが決まりました。
でも、
その約束もあっさりと反故にされ、
過酷な環境だったカンサス州の保留地へと送られました。
かつては
優しく、手厚く保護してあげていた白人たちに
理不尽な仕打ちを受け続け、
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裏切られ続けてしまったのです。
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その地の悲惨な環境で病気となり次々と死んでいきました。
酋長のジョセフは、
合衆国政府へ
ネ・ペルス族の窮状を訴えましたが
ことごとくこれは無視されました。
1883年になって、
この件が報道機関によって報道されたことから
生き残ったネ・ペルス族は米国国民の同情を集め、
故郷へと帰ることが許されました。
ただし
故郷へ帰ることが出来たのは
ほんの一部の先住民だけ。
合衆国政府も
マスコミにアピールするための形だけのものでした。
実際には見せしめのために
半分以上は危険人物として
別の保留地へと送られてしまいました。
1904年
ジョセフは、失意のどん底にいたまま、
死の直前まで、
故郷に戻ることを懇願し続けたまま
その場所で
息を引き取ります。
彼の死亡診断した医師は、
診断書の死因の欄に
「傷心Broken Heart」
と記載しています。
ジョセフの心の中が
いかに辛いものだったのかを
その医師はとてもよく感じていたのでしょう。
酋長ジョセフは、
その勇気と強く的確な指導力から
「レッド・ナポレオン」と称されましたが、
最後も
セントヘレナ島で失意の中で死んでいったナポレオンのように
酋長ジョセフもまた、
失意の中で
この世を去りました。
傷心によって死亡した先住民たちは
無数にいます。
どれだけ多くの人たちが
傷心の中で亡くなっていったことでしょう。
私も過去の記憶を持ったまま今回も来ているので
いまだに
つらく悲しい気持ちを感じます。
日本では明治時代末期のころのお話です。
(日本でもアイヌ民族に対して
同様のことをおこないました・・・)
いまだにこのような迫害は
世界各地の先住民に対して
続いているのが
現実です。
アマゾン奥地にすむ先住民族の中には
石油や金の採掘場となってから
突然消えた部族もあります。
ほとんど報道されることはありません。
私たちが
文明を享受し、
無駄にエネルギーを浪費する限り
このような民族虐待に加担していることになるのです。
311の後に
ほんのわずかな期間だけ
エネルギーを大切に使おうという気運が日本にもありました。
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もう
これ以上
「傷心による死」
を増やしてはいけない。
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コメント
コメント一覧
なぜか
涙が出てきました
先生とここの読者の方々の純粋さに救われています。ありがとうございます。
どんな言葉でもこの悲しみは
言い尽くせそうにありません。
愛に生きれますように。
遠い過去の出来事ではなく、形を変えてそれは今もこの地球で起こっていて、この文明社会に暮らしている私も含め、加害者であり被害者であるのですね。
対岸の火事ではなく、その原因が身近な暮らしの中に。
『先ずは私から』
小さな心の火を守る様に、丁寧に優しさを積み上げて生きます。
これ以上『傷心による死』を
増やしてはいけない。
何となく、先生はそんな過去をお持ちなのかしら・・?と、ふと思うことはあったのですが、やはりそうだったのですネ・・・。
最近、学校のストライキなどの話を聞くにつけ、小さな子の未来を奪ってきたことも、ついに限界がきたのかと思いました。
自分なりに、なんやかんやと、やってきたつもりでもありましたけれど、手ぬるかった所もいっぱいあったと思います。
根本の所から、生き方にもう一度見直しをかけてみたいと、そう思いました。
いつも意義深い活動、ありがとうございます。
m(_ _)m
人を狂気に導く戦争、争いとは恐ろしいものです。恐れおののきます。
森井先生、足の具合はいかがですか?だいぶ回復されましたでしょうか?
過去生の傷から癒されることを願っています。
いつもありがとうございます。
足ではなく、全身です。私も「傷心死」しましたので。
私は「かぶっている」記憶はなさそうですが、知ってはいたけど何もできなかった無力さを感じずにいれません。
「君が代から神が代へ」の下巻を拝読させて頂いてます。北米の先住民の教えや霊性の高さにたくさん触れられてます。
ここのところひかたまも、北米先住民の記事が続いていらっしゃいます。
このひかたまの場は「その時代」を生きていた方々が、きっと集まっているのでは?と思います。
世紀を超え、今、先生が語られることで、同じ時代に生きていた方々の魂に響くと思います。
決して容易には癒えないけども、深い魂の傷がしだいに和らぎだし、心と魂を支え合いながら、すべてが癒されますように…切に願います。
一度、北米先住民の魂をもつ方々の皆さんで、祈りを届けてみてはいかがでしょうか?
やった側、やられた側、を越え、すべての魂が調和の祈りで包まれますように。
被害者だと思っていたら、その前の世では、加害者だった、と。
私は、白人側であった事も、先住民であった事も、在る、と観じます。
こんなに恐ろしい事をしたのかと自分を憎みました。
かつ、みんなを守れなかった、奴らを許さない、人を信じられない自分もいました。
自分が大嫌いでした。
でも私は悪くない、と思う自分もいて。
真っ黒になっていた魂を調和の祈りで 光に変換しました。
魂に必要だったから 行われた、ただそれだけ。
しかし 苦しい悲しい出来事でした。
たった今の自分を認め受け入れ ゆるし 愛してあげることがやっとやっとできてきたように
思っていました。
しかし、ここにきてまた浮上してきていました。苦しみが。
なんなのかよくよく見つめました。
わかりました。
自分だけ救われてもダメなんだ、と。
やった側↔︎やれれた側、した側↔︎された側、両方。
すべての人へと 光が拡がらないとダメなんだ。
憎しみ苦しみを光に変換しないとダメなんです。
私は森井先生にお会いしたことはありませんが
魂は知っている、と観じます。
本で教えていただきました 光の瞑想 を真剣に行います。
森井先生 コメントを書いてくださっているみなさま
ありがとうございます。
森井先生の語りだけでは 気づけませんでした。
ここにコメントを残す事もしなかったと思います。
祈りを届けます。
被害者だと思っていたら、その前の世では、加害者だった、と。
私は、白人側であった事も、先住民であった事も、在る、と観じます。
こんなに恐ろしい事をしたのかと自分を憎みました。
かつ、みんなを守れなかった、奴らを許さない、人を信じられない自分もいました。
自分が大嫌いでした。
でも私は悪くない、と思う自分もいて。
真っ黒になっていた魂を調和の祈りで 光に変換しました。
魂に必要だったから 行われた、ただそれだけ。
しかし 苦しい悲しい出来事でした。
たった今の自分を認め受け入れ ゆるし 愛してあげることがやっとやっとできてきたように
思っていました。
しかし、ここにきてまた浮上してきていました。苦しみが。
なんなのかよくよく見つめました。
わかりました。
自分だけ救われてもダメなんだ、と。
やった側↔︎やれれた側、した側↔︎された側、両方。
すべての人へと 光が拡がらないとダメなんだ。
憎しみ苦しみを光に変換しないとダメなんです。
私は森井先生にお会いしたことはありませんが
魂は知っている、と観じます。
本で教えていただきました 光の瞑想 を真剣に行います。
森井先生 コメントを書いてくださっているみなさま
ありがとうございます。
森井先生の語りだけでは 気づけませんでした。
ここにコメントを残す事もしなかったと思います。
祈りを届けます。