今の世界の政治の基本形は、
動物の世界と同じものだからです。
動物の世界と同じものだからです。
オオカミ社会のように、
権力、序列、支配、統制、縄張り、ルール、他の群れとの対立によって成り立っています。
権力、序列、支配、統制、縄張り、ルール、他の群れとの対立によって成り立っています。
権力や序列は
低次の欲望の表れです。
ボスは、群れを統制するために力を誇示することで支配します。
それが
最も楽に効率的に統制できる方法だからです。
人の場合は
そこにさらに低次の欲望が加わり
最も楽に効率的に統制できる方法だからです。
人の場合は
そこにさらに低次の欲望が加わり
オオカミ的な力を持つと
民衆が従順な羊であるように望みます。
今も政治家たちは、
民衆に恐怖を演出し、
強く行動することで、
いかに指導力があるかのようにパーフォーマンスを行っています。
民衆に恐怖を演出し、
強く行動することで、
いかに指導力があるかのようにパーフォーマンスを行っています。
そして、
愚かなことに
そのような強いパーフォーマンスが
支持率アップにつながっているのです。
そのような強いパーフォーマンスが
支持率アップにつながっているのです。
本当は
動物と人との決定的な違いは、
高い意識と理念を持って知性的に行動するかどうかなのですが、
高い意識と理念を持って知性的に行動するかどうかなのですが、
今の政治は、
まだ動物的な手法から抜け出ることはないようです。
人間は
自由意志によって
動物を超えることもできれば
動物以下になることもできます。
まだ動物的な手法から抜け出ることはないようです。
人間は
自由意志によって
動物を超えることもできれば
動物以下になることもできます。
新しい世界を安定させるためには、
まずは
低次の欲望から離れて
精神性の高い政治に切り替えていくことが必須になります。
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コメント
コメント一覧
宗教うんぬんではなく、日常的に学べて、当たり前に追究できる日本であってほしいものです。
戦前の日本では良き指導者も沢山居られて、そのような環境があったのでしょうか。
いっそのこと精神性ブームが来ないかなぁなんて妄想しちゃいます。でも、もしかすると、昨今のスピリチュアルブームには精神性も含まれているのかもしれませんね。
一歩(か二歩か三歩か四歩)間違えると危険性を孕む可能性もあり得るのかもしれない精神性の分野では、先生のような優れた方が、これからたくさん出てきてくれると嬉しいなぁと思います。
精神性の高い政治であれば、どれほど住みよい国になり、救われる人もどれほどいるのかと楽しみです。
恥ずかしながらどこまでもてーげーな私ですが、高い意識と理念を持ち生きていきたいと感じます。
自然界と私たちの繋がりももちろん忘れないように。
いつも楽しみにしています。
ありがとうございます。
そうですね。
精神性はなかなか世の中に浸透せずとも、一部の人々は、信仰や愛を通して、人は心の拠り所を見出し、精神性高みを目指していかれたのでしょう。
これからは、もっとしなやかに自由に精神的高みを極め、開花していく時代になっていくに違いありません。令和だもの。
空海やたくさんの先人達が残した真理を、しっかり学ばれた方が、意志を引き継いで人々の心情を汲み、温かい血の通った政治を担ってほしいですね。ひたかま読者さんにいないかなぁ?
同時に国民として、私も精神性を高め判断していく責任を磨かないといけないですね。
精神性高みを目指し、一歩一歩頑張って生きます。
森井先生、いつも忙しい中を、blogで伝えようとしてくださりありがとうございます。
これからも応援しています。
最近読んだ本に素晴らしい言葉があったので、残していきます。
哲学者 芳村思風
人間において、生きるとはただ生きながらえることではない。
人間において、生きるとは、何のためにこの命を使うか、この命をどう生かすかということである。
命を生かすということは、何かに命をかけるということである。
だから、生きるということは
命の最高のよろこびは命をかけても惜しくない対象と出会うことにある。
その時こそ、命は最も充実した生の喜びを味わい、
激しくも美しく燃え上がるのである。
君は何に命をかけるか。
君は何の為になら死ぬことができるか。
この問いに答えることが生きるという事であり、
この問いに答えることが人生である。
ありがとうございます。
政治のみならず、家庭、会社、地域との関わり、国と国など様々な場でも当てはまることだと思います。
例外なく私の中にもそういった心はあり、自らの状況がままならないとき、攻撃的、否定的になり、強く出て相手を黙らせようとしたり、ネットから引っ張ってきた何処か誰かの情報を真実であるかのように引用して(明るい話題ではない)、相手の意識を自らに向けさせようとすることがあります。
そんな意識でいるとき、ハッと気が付き、その行いを恥じます。口にしながら、既に気付いているときもあります。感情に囚われ、それを吐き出さないと次に移れないのです。そんなとき、言葉や行動は拳以上の暴力です。怒りの意識の乗ったそれを相手へぶつける。ましてや立場的に反論出来ないひとへなら尚更です。
許せないのは、相手ではなく、私なのです。
怒りを握り締めた、私を許せないのです。
私はまわりから、いつもニコニコしていて怒ったところを見たことがないと言われたりしますが、喜怒哀楽は確かにあり、自らの行いを恥じて相手に謝ったとき、キョトンとされることがあります。私の中では怒りをぶつけてしまったと感じていても、相手はそうは思っていないのです。全てがそうではなく、無意識にぶつけ、傷つけていることもあると思います。
こうして自らを書きながら、様々な場面が思い浮かんでいます。感謝と共に、様々な立場をとる自らに活かしていこうと思います。日常は師であり、実践の場です。自らを鏡として。