神の詩 第二章第十四~十五節


「クンティの子(アルジュナ)よ、感覚がその対象に触れると、寒暑や苦楽の感情が生まれる。この感情は現れたり消えたりして、長くは続かない。これに耐えよ、アルジュナ。(十四)」
「アルジュナよ、これらの感情に苦しまず、苦痛と快楽を淡々と受け入れて動揺しない者は、不死に値する。(十五)」
このクリシュナの言葉は、
「感覚の制御」
と
「忍耐」
という
霊性進化の初期に必須な
二つの重要な課題と助言が含まれます。
「感覚の制御」
と
「忍耐」
という
霊性進化の初期に必須な
二つの重要な課題と助言が含まれます。
人間の感覚とは、
相対的で刹那的なものです。
日常生活でも
相対的な感覚を優先して生きています。
相対的で刹那的なものです。
日常生活でも
相対的な感覚を優先して生きています。
目の前にメロンがあったとしましょう。
メロン好きの人が見れば、
美味しいと思います。
メロンが嫌いな人から見れば
見たくもないでしょう。
メロンが美味しいか不味いかを決めるのは、
メロン本体ではなく、
そこに関わった人の意識です。
メロン好きの人が見れば、
美味しいと思います。
メロンが嫌いな人から見れば
見たくもないでしょう。
メロンが美味しいか不味いかを決めるのは、
メロン本体ではなく、
そこに関わった人の意識です。
寒さも暑さも
人によって全く感じ方が異なります。
寒さは、
人によって違うだけでなく、
同じ人でも
体調によっても
時間によっても
季節によっても
常に変化しています。
人によって全く感じ方が異なります。
寒さは、
人によって違うだけでなく、
同じ人でも
体調によっても
時間によっても
季節によっても
常に変化しています。
これら
常に変化する相対的なものです。
ということは、
これらの相対的なものは
意志によって制御できる
ことを意味しています。
常に変化する相対的なものです。
ということは、
これらの相対的なものは
意志によって制御できる
ことを意味しています。
肉体的な感覚器官と心は密接に関係し、
感覚に与えられる無限の変化に
心奪われることによって、
心が
顕在意識の表面部分で翻弄されることになり、
深い意識へ入っていくことが
難しくなってしまいます。
感覚に与えられる無限の変化に
心奪われることによって、
心が
顕在意識の表面部分で翻弄されることになり、
深い意識へ入っていくことが
難しくなってしまいます。
味覚は
より美味しいものを求め続け、
嗅覚は
より良い芳香を求め続け、
聴覚は
より優雅な音を求め続け、
視覚は
より美しいものを求め続け、
触覚は
より触り心地の良い肉体的接触を求め続けます。
それら各感覚器官には
欲望が関与し、
制御しなければ
終わりはありません。
車でさえ、
ブレーキはあるのです。
より美味しいものを求め続け、
嗅覚は
より良い芳香を求め続け、
聴覚は
より優雅な音を求め続け、
視覚は
より美しいものを求め続け、
触覚は
より触り心地の良い肉体的接触を求め続けます。
それら各感覚器官には
欲望が関与し、
制御しなければ
終わりはありません。
車でさえ、
ブレーキはあるのです。
低次の自己に従い、
感覚の奴隷になるのであれば、
人としてではなく、
動物以下の存在へと変わってしまいます。
感覚の奴隷になるのであれば、
人としてではなく、
動物以下の存在へと変わってしまいます。
いつどんな時にでも
「知性と理性は、感覚に勝る。」
ことを覚えておくべきです。
「知性と理性は、感覚に勝る。」
ことを覚えておくべきです。
人の感覚は、
視覚、嗅覚、触覚、味覚、聴覚の五つの肉体的感覚器官
超視覚、超嗅覚、超触覚、超味覚、超聴覚とでもいうべき精妙な感覚器官、
五つのエネルギー体(肉体、エーテル体、アストラル体、メンタル体、コーザル体)、
五つの機能(呼吸、循環、吸収、排泄、エネルギー循環)、
四つの心(低次の心、知性ある心、顕在意識、潜在意識)。
そしてそれらすべてを統合する
真我
真我
合計二十五の要素によって成り立つものです。
神は無限の存在なのにも関わらず、
人の世界ですべてが有限であるのは、
これらの感覚に関わる要素が
限界を設定しているからです。
人の世界ですべてが有限であるのは、
これらの感覚に関わる要素が
限界を設定しているからです。
時間でさえ、
肉体とエーテル体の感覚器官によって作り出された幻影的な制限であり、
神の領域には
時間という制限も存在しません。
肉体とエーテル体の感覚器官によって作り出された幻影的な制限であり、
神の領域には
時間という制限も存在しません。
日本には
感覚を制御する言葉として
「心頭滅却すれば、火、自ずから涼し」
というものがあります。
感覚を制御する言葉として
「心頭滅却すれば、火、自ずから涼し」
というものがあります。
感覚の制御は、
霊性進化を目指す上で重要な事項になります。
インドには、
「感覚の制御を伴わない霊的修業は、穴の開いた壺と同じ」
という言葉があります。
霊性進化を目指す上で重要な事項になります。
インドには、
「感覚の制御を伴わない霊的修業は、穴の開いた壺と同じ」
という言葉があります。
コメント
コメント一覧
感覚の制御、と。
地球には制御を試みている存在はほとんどいないかとおもいます。
思うというか、実際そうです。
まずは「足るを知る」。
少し胸が騒ぎます。
人によって全く感じ方が異なります。」
この一文を拝読した時点で、私の心なのか脳なのか判断が付きませんが、
「心頭滅却すれば火もまた涼し」
へと意識が飛び至ってしまっていました。
ただ、先程、「心なのか脳なのか・・・」と表現しましたように、『感覚』的に捉えてしまうのです❗
時間も空間も(超越というには大袈裟だが)関与しない『感覚』的なところで❗
このことが既に感覚的なので、「問題あり」のように「感じて」しまうのです❗
「知性がない」と「感じて」います。
森井先生がご教授くださる内容は理解できるのですが、真摯に受け止めようとすればするほど、ハートや腑に落ちる「感覚」が強まり・・・ということは・・・パラドクスへと・・・
私は『無想無念』の境地には至れないのでしょうか❓
恐らくは、肉欲というものでは無かろうけれども、
やわらかであたたかく、穏やかで優しい、すんだ耽美な感覚的世界への憧れという執着を味わってみたいと希望しているのでしょう。
なんともまぁ・・・知性の至らぬことす(泪)
抵抗勢力でも反逆者でもない・・・カナシミ
「愛のために♪わがままに♪僕は君だけを傷つけない🎶」と、大好きな下世話なお歌がきこえてきて・・・
低次の自己も高次のそれ(ハイアーセルフ)も私であることを抱きしめて、
スターシードでアースエンジェルである(皆様と同様の)ことを、
あらためまして自覚して、
バガヴァッド・ギーターという聖典へと、
森井先生に導かれてゆこうとおもいをあらたに致しております。
今日もまたありがとうございます😊💞🙏
知性が・・・・す(泪)➡「で」す(泪)
失礼致しました🙇🏻♀️💦🙏
阿闍梨の塩沼氏程になれば感覚の制御ができるのでしょうか?
知性が➡知性「の」 となります
何卒、平にご容赦お願い申し上げます😖💦🙇🏻♀️💦🙏
現実化の速きこと恐るべし!アホの証明💢
ですが、飲みたい時はこの文章を思い出します
二つの重要な課題と助言が含まれます。
え~~っつ、二つともない、苦手、どうしましょう~。
いつどんな時にでも
「知性と理性は、感覚に勝る。」
ことを覚えておくべきです。
そんなことを言われても、初めて聞く言葉です。
何が體に良いか、食べたいと思ったものが良い、それを食べたらよいとつい最近(4,5年前)に言われたのがしっかり改めて認識したばかり、
感覚の制御は、
忍耐と同時に重要な課題となるものです。
好きなこと、楽しいこと、人の為のことをしていると、確かに自分の肉体的苦痛は消えています。そのあとが~。苦笑ものです。(感覚)
忍耐、全くないのを自覚してます。眠くなったら眠る。たべたくなったら食べる。したくないことはしない。開き直っている(子供曰く)わけではありませんが、それが今の私です。
気楽そうに、書いていますが、実は、何かをつきつけられた、衝撃を感じています。
二つの重要な課題と助言が含まれます。
え~~っつ、二つともない、苦手、どうしましょう~。
いつどんな時にでも
「知性と理性は、感覚に勝る。」
ことを覚えておくべきです。
そんなことを言われても、初めて聞く言葉です。
何が體に良いか、食べたいと思ったものが良い、それを食べたらよいとつい最近(4,5年前)に言われたのがしっかり改めて認識したばかり、
感覚の制御は、
忍耐と同時に重要な課題となるものです。
好きなこと、楽しいこと、人の為のことをしていると、確かに自分の肉体的苦痛は消えています。そのあとが~。苦笑ものです。(感覚)
忍耐、全くないのを自覚してます。眠くなったら眠る。たべたくなったら食べる。したくないことはしない。開き直っている(子供曰く)わけではありませんが、それが今の私です。
気楽そうに、書いていますが、実は、何かをつきつけられた、衝撃を感じています。
幻想(感覚)にフォーカスして強化して主導権を渡しているような状態を
魂側主導に戻してくる、というように受け取りました。
読み返して、
・・・・・何かをつきつけられた、衝撃を感じています。
(きっと、耳が痛い言葉故と、思いますが)
これも感覚と思いますが?。
これをどのように制御するのでしょうか?
感情ではなく、感覚の制御なのですね。
それはまたかなりハードルが高い…。
例えば熱湯をさわったとして、「熱い」と思うのが「感覚」で「熱くて嫌だ」と思うのが「感情」ですよね。
その「熱い」という感覚を制御するのはやはり並大抵のことではないですよね。
この物質世界でたくさんの感覚や感情を味わいつくし、最終的には制御し手放す。
それこそが霊性への、解脱への一歩なのですね。
人間には自由意志がもたらされている、とのことですが
この物質世界で感情や感覚を楽しんでくるくると輪の中にとどまっているのか、
その感覚を超えて輪から抜け出すのかは
自分の意志で選べるということなのですね。
シルバーバーチは霊界はとても素晴らしい景色で私たち人間が見たこともないような世界が広がっているといいます。
その素晴らしい景色は感覚によるものなのでしょうか?それとも超感覚によるものなのでしょうか?感覚を超えたところにその景色は広がっているのかな。
聖典が読む人の成長の進度によって
解釈が変わってくる、というのを
実感してきました。
先生の解説がなければ、ふつうに読み過ごす気がします。
(そもそも読まないかも…)
相当の貧乏で、孫がお腹空いて「ばあちゃん、お腹空いた〜」に「気のせい、気のせい」とかわしていたそうです笑
意識を逸らして、違うことを考えて、感覚さえも工夫する知恵ですね。
ままならぬ状況でも、常に明るくユーモアでいることも、感覚を制覇していることなのかもしれないですね。(次元違いかな汗)
感覚の制覇、そこへ辿り着くのは、愛が要なのかもしれないと、感情の揺れの経験でそう感じました。
自分が幸せでいる、周りの人を幸せにする、そう意識するだけでも、少しは意識や感覚を磨けるのかもしれないなぁと考えています。
いつもありがとうございます。
感覚の制覇ではなく感覚の制御です。
修正します💦
対象に近付かないことだけではなく、以前教わった「薫習」が大切になってくるのではないか?と思いました。
無意識に感覚を満たすことを繰り返すのではなく、自らの心の在り方を大切に、意識的に繰り返すこと。
俯瞰することだけでは、いつの間にか無意識にその対象や感覚、感情にとらわれてしまい、欲望や執着という強力な磁力に引き寄せられては、中立へ戻ることを繰り返してしまう。
単なる我慢という受け身的な忍耐ではなく、その欲望や執着をよりよく活用し、真我へ積極的に向かう原動力として肯定する。
日々、聖典の解釈を通して、森井先生の心の在り方や霊的解釈を、繰り返し自らに染み込ませること。
「自分の解釈は足元にも及ばないなぁ…」
と落胆しつつ、この感情や感覚のように常に変化するものを、知性と理性に基づいた意思によって制御したいです。
アルジュナやクリシュナが乗るのは戦車という馬車。手綱のない馬車を制御することは不可能ですものね。
今日も森井先生とみなさんのコメントから、たくさんのことを教わります。ありがとうございます。