神の詩 第二章第十三節

続きます。
次は
よく内観してください。
そして
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先週からどうしてもコロナの記事を希望とのリクエストがいくつかありましたが
ここでは書きませんが
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「この肉体に宿る者(霊魂・個我)は少年期・青年期・老年期をこの肉体で過ごした後、
他の肉体に移る。賢者はこれに惑わされない。(十三)」
続きます。
日本には
輪廻転生を示唆する言い回しがたくさんありますので、
日本人には受け入れやすい考え方だと思います。
輪廻転生を示唆する言い回しがたくさんありますので、
日本人には受け入れやすい考え方だと思います。
例えば、
「袖触れ合うも多生の縁」
ということわざがあります。
この
「多生」
とは、
何度も繰り返し生まれてきた過去生のことを示しています。
今生において、
道で通りがかりに袖を刷り合う程度の関係であったとしても、
数えきれないほどの生まれ変わりの中で、
時に友人で会ったり、
時に家族で会ったり、
共に仕事をしていた仲間だったかもしれません。
日本では、
何度も生まれ変わってくるという
輪廻転生を
誰もが日常的に信じているために、
自然と使われている言葉の一つです。
「袖触れ合うも多生の縁」
ということわざがあります。
この
「多生」
とは、
何度も繰り返し生まれてきた過去生のことを示しています。
今生において、
道で通りがかりに袖を刷り合う程度の関係であったとしても、
数えきれないほどの生まれ変わりの中で、
時に友人で会ったり、
時に家族で会ったり、
共に仕事をしていた仲間だったかもしれません。
日本では、
何度も生まれ変わってくるという
輪廻転生を
誰もが日常的に信じているために、
自然と使われている言葉の一つです。
人が生まれた時点で、
王家に生まれたり、
最貧のスラム街に生まれたり、
健康であったり、
病弱であったり、
人生が順調満帆であったり、
人生が苦悩に満ちたものであったり、
生まれてすぐに死んでしまう人もいれば、
百年を超えて長生きする人もいます。
王家に生まれたり、
最貧のスラム街に生まれたり、
健康であったり、
病弱であったり、
人生が順調満帆であったり、
人生が苦悩に満ちたものであったり、
生まれてすぐに死んでしまう人もいれば、
百年を超えて長生きする人もいます。
それでも
神が完璧なまでに公明正大であるということは、
輪廻転生による魂に刻まれたカルマ無しには考えられないことです。
今、
私たちが置かれている状況や環境、身体は、
完璧な因果律に従って、
魂の学びに
最もふさわしい状態
に置かれています。
神が完璧なまでに公明正大であるということは、
輪廻転生による魂に刻まれたカルマ無しには考えられないことです。
今、
私たちが置かれている状況や環境、身体は、
完璧な因果律に従って、
魂の学びに
最もふさわしい状態
に置かれています。
それを理解するだけでも、
人生は
大きく良い方向へと変えることができます。
人生は
大きく良い方向へと変えることができます。
キリスト教では
長い間輪廻は否定されていましたが、
聖書の中には
いまだその真理が残されています。
長い間輪廻は否定されていましたが、
聖書の中には
いまだその真理が残されています。
「あなたがたに言っておく。エリヤはすでにきたのだ。しかし人々は彼を認めず、自分かってに彼をあしらった。人の子もまた、そのように彼らから苦しみを受けることになろう。
そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと悟った。」マタイによる福音書17-12-13
これは
イエスが
エリヤの魂がヨハネに転生したことを指摘しています。
イエスが
エリヤの魂がヨハネに転生したことを指摘しています。
「物質的な肉体は、春夏秋冬の移り変わりのように、成長し、成熟し、衰えていく。その核にある真我が永遠不滅の存在として在る。」
「魂は不滅であり、肉体は輪廻転生によって再生される。」
「自分は肉体だけの存在ではない。」
今の世界では、
「生」と「死」
という言葉が、
物質世界における長い歴史の中で
狭い視野で
限定された観念を作り上げてしまい、
真の意味での理解が成されていない
という問題があります。
「生」と「死」
という言葉が、
物質世界における長い歴史の中で
狭い視野で
限定された観念を作り上げてしまい、
真の意味での理解が成されていない
という問題があります。
本来、
物質界における「死」は
霊界における「生」なのですが、
物質界の観点からしか見ることが出来ない場合には、
この現象を絶対的な死と勘違いしてしまうのです。
物質界における「死」は
霊界における「生」なのですが、
物質界の観点からしか見ることが出来ない場合には、
この現象を絶対的な死と勘違いしてしまうのです。
文字で表現すれば、
物質界に生まれてくることは
学ぶためにこの世に入ってきた「入学」であり、
死は
業(カルマ)を修了した「卒業」という言葉で表した方が適切なようです。
学校を卒業すると、
もうその学校には戻らずに、
新しい生活を始めます。
人生でも、
一度死んでから同じ体に戻ってくることはないので、
お堅い校則の無い天界での新しい生活が
よほど快適なのではないでしょうか。
物質界に生まれてくることは
学ぶためにこの世に入ってきた「入学」であり、
死は
業(カルマ)を修了した「卒業」という言葉で表した方が適切なようです。
学校を卒業すると、
もうその学校には戻らずに、
新しい生活を始めます。
人生でも、
一度死んでから同じ体に戻ってくることはないので、
お堅い校則の無い天界での新しい生活が
よほど快適なのではないでしょうか。
多くの臨死体験経験者は、
再び重い肉体に戻ってくることが
苦痛に感じると述べていますし、
死をこの世の終わりではなく、
卒業と捉えることが多いそうです。
優秀な成績で卒業するかどうかは本人次第ですが。
再び重い肉体に戻ってくることが
苦痛に感じると述べていますし、
死をこの世の終わりではなく、
卒業と捉えることが多いそうです。
優秀な成績で卒業するかどうかは本人次第ですが。
「死」という言葉から
「卒業」
という言葉に代えるだけでも、
多くの人々の中に定着した固定観念から外れて、
より視野の広い観方に変わっていくように思います。
実際に卒業した後は、
新しい世界へ行くのですから。
「葬式」も
「卒業式」
に変えるだけで、
遺族も癒され、
新しい世界へと旅立つ本人も
より心が軽くなることと思います。
「卒業」
という言葉に代えるだけでも、
多くの人々の中に定着した固定観念から外れて、
より視野の広い観方に変わっていくように思います。
実際に卒業した後は、
新しい世界へ行くのですから。
「葬式」も
「卒業式」
に変えるだけで、
遺族も癒され、
新しい世界へと旅立つ本人も
より心が軽くなることと思います。
仏教には
「成住壊空」
という言葉があります。
「成住壊空」
という言葉があります。
一つの世界が成り立ち、
安定して維持し(住)、
やがて壊れていき、
空に再び戻っていく(空)。
人も物質も、
感情のような物質界で作られた目に見えないものも、
この法則に則っています。
安定して維持し(住)、
やがて壊れていき、
空に再び戻っていく(空)。
人も物質も、
感情のような物質界で作られた目に見えないものも、
この法則に則っています。
また
禅の言葉に
「日面仏、月面仏」
という逸話が「碧巖録」に収録されています。
禅の言葉に
「日面仏、月面仏」
という逸話が「碧巖録」に収録されています。
ある時、
ある禅僧が重度の病にかかり、
療養していました。
そこへ
知人がお見舞いに来ました。
「具合はいかがでしょうか。早く良くなってください。」
と知人は言います。
ある禅僧が重度の病にかかり、
療養していました。
そこへ
知人がお見舞いに来ました。
「具合はいかがでしょうか。早く良くなってください。」
と知人は言います。
禅僧は、こう答えます。
「日面仏、月面仏」。
「日面仏、月面仏」。
日面仏とは、千八百歳まで生きた仏様です。
月面仏とは、一日で亡くなってしまった仏様です。
この禅僧は、
「人それぞれ寿命があり、
長生きする者もいれば、
短い命の物もいる。
それは天の計らいであり、
自分の意志で決められるものではない。
自分に出来ることは
生死を超えて、
いつでも心穏やかに静謐でいること。」
と伝えたかったのです。
「人それぞれ寿命があり、
長生きする者もいれば、
短い命の物もいる。
それは天の計らいであり、
自分の意志で決められるものではない。
自分に出来ることは
生死を超えて、
いつでも心穏やかに静謐でいること。」
と伝えたかったのです。
死は、
すべての終わりではなく、
次のステージに移行するための卒業にすぎない
ということを理解することによって、
唯物論的な思想は取り払われ、
一つの人生を超えた大きく広い視野を持って、
崇高な目的のために
心静かに物事を遂行できる下地が作られます。
すべての終わりではなく、
次のステージに移行するための卒業にすぎない
ということを理解することによって、
唯物論的な思想は取り払われ、
一つの人生を超えた大きく広い視野を持って、
崇高な目的のために
心静かに物事を遂行できる下地が作られます。
「一つの人生とは何か?それは、夜にまたたく蛍の光の輝きであり、真冬のバッファローの白い一息であり、夕暮れの草陰にほんのわずかな時間現れては消えていく小さな影だ。」北米先住民ブラックフット族の言葉
次は
「クンティの子(アルジュナ)よ、感覚がその対象に触れると、寒暑や苦楽の感情が生まれる。この感情は現れたり消えたりして、長くは続かない。これに耐えよ、アルジュナ。(十四)」
「アルジュナよ、これらの感情に苦しまず、苦痛と快楽を淡々と受け入れて動揺しない者は、不死に値する。(十五)」
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コメント
コメント一覧
有限な人生を「受容」から栄輝をいただき、花を咲かせなくてはなりません。どんな花でしょう?🎵
「寒暑や苦楽の感情」さへ、敢えて味わいたいとさへ思ってしまう
「アルジュナよ、これらの感情に苦しまず、苦痛と快楽を淡々と受け入れて動揺しない者は、不死に値する。(十五)」
苦痛と快樂が、セット若しくは等しい数量で訪れるのならば、淡々と受け入れることも然程には困難ではないのかも知れないとさへ思えてきてしまう。
なにごとも重要なバランスと中庸を思います。
眠くて眠くて朦朧とする意識の中で、拝読した記憶のある本日分に、あらためまして感謝致します。
「アルジュナよ、これらの感情に苦しまず、苦痛と快楽を淡々と受け入れて動揺しない者は、不死に値する。(十五)」
喜怒哀楽の感情や、瞬間瞬間に湧いては巡り、消えゆく思考に支配されることなく
それらを俯瞰して捉え、受け入れてごらん。
揺れ動かずに思考、感情、心を見つめてごらん。
本質を思い出し、愛(調和)を表現してごらん。
というふうに、とりあえずの解釈とさせていただきます。
私はあまり教養がなく、もしお見苦しいコメント文章でしたら、その時は申し訳ありません。
皆さまの「ひかたま」コメント、いつも楽しく読ませていただいてます。
今後共、とても貴重なこの機会、楽しく学ばせていただきます。
先生、皆さま、いつもありがとうございます。
シェアの時は特に感じます。皆さまのコメントを後で見て、毎回感動したり感心しています。先生、皆きま、ありがとうございます。
感情は対象があって生まれるもの。
相手があってはじめて生まれるという事は、自分の魂から出てきた不動のものではなく、外に依存した、刹那的な幻想に近いもの。
これを自分と思い振り回されている時期ではもうない。
成長の為の仕組みなので、沸き起こる苦楽はただただ受け入れる事が最も自身の糧になる。
それを日常にできたなら、肉体を持って、本質で過ごす事ができる。
それは不死を手に入れたにも等しい。
このような感じでしょうか?
シェアの機会も用意していただき、取り組みの助けをいただいています。
引き続きのご鞭撻、どうかよろしくお願いいたします。
あからさまに、あっ「ケ○ト○イル」だっ、とわかりました。
今年の私は、もう6月も中旬になってきたのに、花粉症様の症状がおさまりません。だるいですし(泣)
去年はほとんどそんな症状はなくて、空に「ケ○ト○イル」を見た記憶も、ありませんでした。
今は、○○○ン問題を筆頭に、多くの社会的疑念と、その対処策を調べることに忙しくて
「聖典を学ぶ気分になりにくい」のは確かです。
しかし逆に、チャンスだとも言えます。
今の現実をモタラシたのは、宇宙の周期性のもとに、宇宙が与えた試練なのであり、「被害者意識」を捨てて
怒り、恨み、そして『執着』などの感情を手放して
自分をみつめることが必要です。
「そのとき、自分の周波数はアップ」します。
それは、高次の存在と繋がりやすくなることを意味します。
地球規模の「スピリチュアルペイン」だと言えます。
聖典を理解するには、都合がいい時だと考えます。
「ニームの木の樹皮と葉の成分」を、粉末にしたカプセルかもしれません。
これは(mRN○)の『エクソソーム?』対策です。
他には松の樹から取った成分(名前忘れた)とか
有機ゲルマニウム(お高いです)などが候補でしたが
一番手軽に入手できるものを買いました(お金が〜〜)
軍事介入などが起こって、この茶番が停止することを
望んでいる地球人も多いですが
多分ないと思いますので、やがて自分の周りも
○○○ン○種者だらけになる可能性があります(信じたくないが)
そのための予防策ですが、
気休めにしかならないかもしれません。
また、自在に制御出来るようになると思います。
ヨガナンダが暑い日に意識の力で冷風に変えたように。
本源、実在、呼び方はなんでもいいですが、その自分しか存在しない意識、エネルギーには、動揺があるわけがないので、正しい見方により、動揺を抑えることで、生死、輪廻をこえたその視点に立てる。または、近づけるという意味だと思いました。
それしかないので、近づくも、遠ざかるもないのですが。。はじめから一体で違うものと思いこんでいただけで、輪廻もあるように見えているだけのような気がしますが。。
聖典から少し離れるかもしれませんが
ここ数日、「感情」について考えていたところでした。
ヒト は肉体・幽体・霊体からなっている、と。肉体とその他の違いはわかりますが、幽体と霊体の違いって?
そもそも魂と霊の違いは?精神、心の違いは?
頭で考えることと胸の奥で感じるものの違いはなんとなく体感でわかるのですが、明確な違いがわからなくなってきました。←ドツボにはまった?
その一貫で感情とは何?
どこから生まれてくるの?、と考えるようになりました。
そもそもすべてのものはそこに「存在する」だけ、ただ「在る」だけなんですよね。
山も海も空も花も。
その存在に意味や価値を見いだせるのは人間の特権だな、と。
それを自分のものにしようとして争いの火種になるのはなんともいえませんが…。
感情自体は決して悪いものではないと思うんですよね。自然を見て美しいと思うのも、心揺さぶられたり悲しいことがあって泣くのも、
人間らしいな、って思いますし。
ただ振り回されるのはどうかな、って思います。感情に振り回され他人を攻撃…、これはおかしいですね。
感情に振り回されないよう、抑えるのが「理性」なのかな、と。
大いなる存在のものには感情がないのでしょうか?
だからこそ感情を体験したくて、分霊としての「ヒト」に感情を与えたのでしょうか…?
上にいけばいくほどきちんと感情をコントロールできてるイメージですね。
なんだか聖典からそれちゃった気がしますが
ここ数日考えていたことです。
淡々と受け入れて動揺しないとは、「あきらめること」と思い浮かびました。
(どうでもいいと投げやりになることではありません)
あきらめる=あきらかにみる=諦観する
どうにもならないことは実際にあるのだから、刮目し、しっかりと受け入れて、本質を理解せよと。
この感情は現れたり消えたりして、長くは続かない。
この感情を俯瞰し、見極め、受け入れる。
時が経てばこの感情に苦しまず、淡々と受け入れることができる。
それはまさしく、人生の至福
になるだろう…と感じました。
先生、いつもありがとうございます。
感謝❤️
と言う言葉で 感激致しました。
この混沌としている でも、光が強くなっているこの時に 目覚め始めている方々を まとめて覚醒へと 導かれる覚悟で おられるのかなと
自分なりにですが 感じました。
自分なりにですが
仕事でも プライベートでも
黙々と することが多く
孤独と戦いながら
自分の内面と向き合う 機会をもらっています。
インナーチャイルド
内在神 など 孤独の後ろに
守ってくれていたこと
有り難く思いました。
山にグループで登る時も、早い人と遅い人がいます。定期的に遅れる人を待つ間に、早い人はゆっくりともう一度学ぶことが出来るので、一石二鳥なのです。
何とかついて行けそうです。
私に聖典なんて理解できないと 食わず嫌いでしたが、
先生の言葉が 説明がピンポイントで 心に 染み入り 理解が深まっております。
有り難うございます。
行動でも言葉でもエネルギーでも、
何かに触れた時に反応して出てくる感情は
本人の身体状態や過去の経験でできた思考によって変わる流れ行くもの。
水のように流れ行くべきもの。
身体状態を清浄にして、
過去に蓄積させてしまった不要な思考や過去の感情を手放すうちに、
苦悩と感じるものも快楽と感じるものも前までより重みを失って
気にならないようになっていく。
永遠に比べたら取るに足らないものなのが、
瞬間しゅんかんも同じようになる。
自分の反応ですらないこともある。)
今回も「クンティの子、アルジュナよ・・」と母の名前を出して呼びかけています。
このクンティの子との呼びかけは、母の名前を出すことで愛で満たされている者アルジュナとして表現されていると思います。
そして「・・これに耐えよ、アルジュナ」と言っていることから、様々な正負の感情に対して忍耐強くいなさいと言っています。
この忍耐とは、心の底から平安で、愛に満たされているという、積極的な「忍耐」の意味なので、色んな感情が湧いてきても、平安な気持ちで、愛に満たされた心でいるのだよ。と教えているのだと思います。
そして、苦しみや喜びの感情にも、落ち込んだり、舞い上がったりせず、心に波風を立てないことが、智慧深い、中庸の道だから、そういう者は悟りをひらき、解脱出来るのだよ。
と教えてくれているのだと思いました。
瞑想って、歯磨きと同じように、毎日するものだったんですね。
昨日したから今日はしないではなく。
日常の行いにしたい、と朝の瞑想の会に参加することにしました。
三日坊主をやめたい!
今日で2日目。続きますように!
同じように ギーターの内観も、えっ、またシェア…
が一瞬よぎりましたが、瞑想と同じだよ、と自分がいうので、かきます。
シュローカ本だとアルジュナを三通りの言い方しています。
クンティの子、バラタの子孫、プルサラサバ、と。
アルジュナに確認しているのでしょうか?
クンティの子〜中庸の位置で俯瞰できていますね。
バラタ子孫〜二元性の中にいましたが統一していますね。
プルサラサバ〜さらにプラスすると、人類の中で最も優れた男になりますよ。
そのプラスとは
感情に一喜一憂しない。
幸と不幸に心乱されない。
揺れてもいい。
けれど淡々としていなさい。
いつでも、この位置で。
ゴールへ、と決めつけると心乱されます。
生きること=学ぶこと、これは永遠です。
心乱されず…これができれば苦労しない、ですが
でも、この節を学んだことを思い出して揺れてもまた戻るを繰り返すと
この節の実践になっていますよね。
瞑想と同じです。
雑念で揺れても気づいたら、呼吸の意識に戻す。
瞑想とバガヴァッドギーターはセット、を実感し始めました。
「アルジュナよ、これらの感情に苦しまず、苦痛と快楽を淡々と受け入れて動揺しない者は、不死に値する。(十五)」
仮に、私が、この言葉を完全に理解して
一日をこの言葉通りに実践できたとしたら?
と、想像してみました。
昨日一日中の私の言動を思い出してみました。
一見、普段より、感情を荒立てる事なく、穏やかに過ごせたように感じましたが、
胸に手を当てて、もっと良く観察すると、
いかに私が、周りの人の言葉、行動や気温などの環境に反応して、湧いた感情に直通で巻き込まれて言動していることに気付きました。
一瞬一瞬、起きている現象や自分に湧き上がる感覚感情を、本当の意味で、淡々と粛々と見つめることができたら、
それは、真我の視座で生きるという面と
現実的に、苦楽に反応した言動を止める事ができる為、実際に、心と体の為になる真に健やかな生き方ができる、不死への道に限りなく近づく面とが
現れるのではないか
と、考えました。
内観しシェアする機会を与えていただき、また、皆さんの素晴らしいコメント、気づきのシェアに
感謝します。
「完璧な因果律に従って、魂の学びに
最もふさわしい状態」 であること、しかし、そのことどれだけのひとが理解しているでしょうか?
この混沌とした状況の中で、
わたしたちは肝を据えないといけない、そのために森井先生からこうして聖典の解釈と生きる道を教えていただけることは感謝しかありません。
本日の課題です。
クリシュナは「クンティの子よ」と言い、母クンティの愛と尊さを想起させます。
次に原文サンスクリット語で変わった表記方法に出くわします。
冬、夏がひとつになり、sukha-duhkha-dah sukha(幸福)とduhkha(苦痛)dah(与える)がハイフンでつながっています。
sukha(幸福)とduhkha(苦痛)は韻を踏み似ています。
苦と楽は紙一重ではないかと思うことがあります。意識や目的の持ち方などで。
もちろん苦より楽しい、嬉しいことの方が良いのですfが、そこに囚われ過ぎると、我欲の源になりかねません。
クリシュナはアルジュナにいっときの感覚、感情に流されずに、淡々と受け入れ平常心で動揺するなと、
そうすれば「不死」つまり魂の不滅を生きるものとなると言っている(後半はほぼそのままですね)と思います。
最後、原文では、アルジュナのことを bharataと呼んでいますね。バラタ王朝の子孫であり、王になるものと。
余談ですが、bharataのところ、日本人よ!と書き換えたい思いがあります。
戦後GHQにより、ことごとく日本人の覚醒を阻害されてきました。その執拗さの裏には日本人が
素晴らしいものを持っていることの証だと思っています。
だから今ここで先生に教えていただくことの何重もの幸運をありがたく思わざるを得ません。
ありがとうございます。
体験から生まれる感情は、常に揺れ動いて 時に大波に飲まれそうになる事もあるけれど
真我は常に不動で在り、体験による気づきを糧としている。
だから、その揺れ動く自我とどううまく つきあっていくかが大切である。
時間のある時に記事をチェックしていますが、コメントまで時間が回らないので、時々コメントする楽しみさせてもらっています。
最初読んだ時に、自分の意識が変わったのか?
先生の文章が、ゆったりなお経のリズムのように、入ってきて、うとうとしかけのような、教え諭すような、優しいまどろみのような心地よさで文章が入ってきました。そして、心に広がる静けさ。
先生がギーターのリズム感を知っていらっしゃるので、文章を通して私がリズムを感じるようになってきたのか?ともあれ感じたことが嬉しい朝でした。
メダカちゃんも喜んでくれました。
知識が広がり、思いやる対象が増えれば増えるほど、自分のエゴや欲は小さくなっていけるようになるのかな、そうありたいですね
多面的な自分を見つめながら、今日も学びです★
その場に立ち、静かに見ていること、そのままを見る、それが学びなのでしょうか。
つい、だからこうしよう、とか、どうしたらいいか、などと考えてしまいます。それらは我欲だと森井先生は教えてくださいました。何も考えないでいるところに学びがあるから、心の垢を落として何も考えないでいる時が必要です。それは我欲ではありませんか。
ただそうやって過ごす時を積み重ねることを
耐える、というのです。高次の次元におられる師はそうやって鍛練なさいと教えてくださっている。
ギーターを内観して、文章に表現することが難しいです。もっと深く観るようにします。
森井先生、コメントをしておられるみなさん、
ありがとうございます。
それらは自分の中に滞在しているように感じるけれど、やがて通り過ぎるので静かに見送ればよい。それらは愛の側面の一つ一つなのだ。
苦痛と快楽という言葉の並びに、それらに善し悪しはなく(比べる事はなく)、ただ単に現れる感覚であるという印象を受けました。色違いとか、一見違って見えるだけのようなものでしょうか。
そしてそれらを拒否したり、また逆に歓迎もせず受け入れる。例えば前から吹いてきた風がそのまま後ろに通り過ぎていくように、感覚に反応せず感覚が起こるに任せる。
そうなればそこから生まれていたであろう様々な感情に左右されることもなく、穏やかさと静けさを携え純粋な状態であることができる...。
ある感情により心が揺れ動いたとしても、振り子のように、揺れたからこそ安定した真ん中を知る事が出来るのではないかと思います。
そしてその真ん中とは中庸で、不死に値するもの...二元性から解放された安定や静寂なのかなと感じました。
いつもありがとうございます。
感情に苦しまず、苦痛も快楽も、近視眼的に捉えず、敵対せず、拘らず、「自身の課題」として、心静かに受け入れ心揺さぶられることがない者は、輪廻転生から卒業するに値する。
と、アルジュナに教えているように思いました。
さまざまな感情を経験することは、魂の大切な学びであり、霊性進化の
プロセスとしても重要なことのように思います。感性が豊かであることも大切です。なので、「感情を抱かないようにする」「不感性」ということではなく、感情の捉え方、処し方を学びなさいということのように思いました。
悲しみや痛みや苦難の中に身を置くからこそ、魂が鍛えられ、愛情深さが増し、真理に目覚める大きなチャンスとなるように思いました。
いつもありがとうございます。
これら喜怒哀楽は、すぐに消える泡のようなものだから、追いかけて、心を乱さぬようにしなさい。
不快なものを嫌悪したり、
心地よいものをもっと欲したりして、
快・不快に執着してはいけない。
悲しみにはまりこむと、心が縛られ、苦しむ人になる。
肉体感覚からはなれて、自己を外から客観的に観察すれば、心が解放され、どんなときも平静でいられる。
心を存在の根源に結びつけ、平安静謐である人は、真の自由を成就する。