宿題

ブログの更新が止まっている間に
ここで宿題を出してみましょう。
もうすでに
ここまで
ご一緒に読んできた人にとっては
優しい問題です。
(*´∇`*)
クリシュナがこの少し先第五章の初めの部分で
「憎しみも望みもない者は・・・」
と説きます。
yo na dvesti na kanksati
憎しみも望みもない者
とはどのような状態なのでしょうか?
なぜこのような表現をしたのか
が今回の宿題です。
よく内観して
どんどん
コメント欄で
シェアしてください。
回答には
正解も不正解もありません。
さまざまなレベルで解釈できるからです。
なので、
どんな意見でもご遠慮なく。
ある程度
ご意見が出てきたら
始めましょう。
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(*´∇`*)
クリシュナがこの少し先第五章の初めの部分で
「憎しみも望みもない者は・・・」
と説きます。
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憎しみも望みもない者
とはどのような状態なのでしょうか?
なぜこのような表現をしたのか
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コメント
コメント一覧
「憎しみも望みもない者」とは?の宿題を、ありがとうございます。(^.^)
霊的段階の違いにより、憎しみや望みの元となる対象は異なるはずですが、我が自由でない限り、憎しみや望みへココロは常に誘惑、誘導されます。如来の如く、慈愛や大愛の空間にまで霊的進化を遂げたものには、憎しみや望みは無くなるのだと思います。
私に見えることは、他者ではなくそれは私自身でもあり、そうであったとわかります。
私の望みを、他者が同じく持ち、苦しんでいたら、慈愛で包み込むことができます。同時に至福にあることに感謝して、歓びます。
理に背かないならば、永遠という道しか歩まなくなります。
それしか、歩むことはないからです。
宿題のおかげで、想念の浄化ができたようです。
重ね重ね、ありがとうございます。
いつもありがとうございます。
よく内観してみます。
憎しみも望みもない者とは、
まっさらな心の状態の人
嫌悪感も期待感も、エゴに支配された心の状態を表しています。
何かをするときに、
渋々、嫌々おこなったり、
見返りを求めたり、
結果にこだわったりするのは
自我のはたらきによるもの
そのような、我欲にとらわれていない状態、
純粋な意識状態の人が、憎しみも望みもない者
第5章は、カルマ・ヨーガについて説いていますので、
まずは、行動するときの心のあり方を教えてくれているのでは? と観じました。
全ての感覚を制御できる者
自己と他者の中に真我(クリシュナ)を見いだしたる者
望みは、未来の事
憎しみや 望みのない者とは
今この時 現在 ここに 生ている状態かなと
思いました。
諸感覚器官の働きを凌駕するのは意思(マナス)であり、この意思をも凌駕するのは理知(ブッティ)である。この理知をも更に凌駕するものは真我(アートマン)なのである。
先生、ひかたまの皆様いつもありがとうございます。心の栄養にしています。
yo na dvesti na kanksati
憎しみも望みもない者
の意味するところとは、
中庸
ゼロ磁場
さとり
宇宙
愛
(断片的な)
神
仏
であると言ってもよいのではと思われます。
「私のハートに突き立てられた懐剣」のことでしょうか・・・
宿題が嬉しかったりしております。
皆さんのシェアからもいつも多くの気づきをいただいてます。
ありがとうございますm(_ _)m
憎しみ、望み
自分を正当化する時の典型的な思いなように思います。
あいつが悪い
自分は悪くない
人より良くなりたい
人より優れていると思われたい
人間に標準でインストールされている典型的な反応に思いますので、真我の道に進む前にまず克服する課題の事なんではないでしょうか?
今後ともご指導よろしくお願いいたします
愛があれば憎しみもないし、望みも必要ない。
「大いなるもの」の名前をなんて表現していいのかわかりませんが、もしそれが神や仏、宇宙だとすればそれは愛そのもの。
神=自分=愛と一体になれた者、そう解釈しました。
私たちは「愛」を思い出すため、体現するためにつくられた存在なのかな、とふと最近思うようになりました。
いつもありがとうございます。
憎しみも望みも因縁 からまるそれらがない
ひっかかるところがない者
純粋なまま ただ在る という状態。
なぜこのような表現か、
欲望の方向性は向きが違っても同じものだとあらわしたかったから
真我に達している人は物事に対する執着がないので、何が起きても観察識別するだけで怒りが湧く事はないし、こうあられねばとかこれが欲しいという欲求もないということを表しているのだと思います。拝
私は正直まだまだ深いレベルでの解釈ができていないとおもいますが、日々記事を楽しみにしてます。(最近は最初からまた読み返しながら最新を読み進めています(^^)
今回の宿題の内観です。
過去の執着、未来への我欲。時間軸を超え、中庸を常に保てる状態に至った魂の状態のことでしょうか。
この ひかたま を愛読するようになり、特にバガヴァッド ギーターの解説が始まってから、そんな自分になりたいと日々意識する事が多くなりました。
日々修行です^_^
これからもよろしくお願いします。
追記です
神=自分=他者=愛
すべてはひとつ。
自分と同じように他者を愛する。
他者にも神が宿っており、神そのもの。
そのことを意識して
生きていくのが今の私の課題のようです。
かなりハードルが高くて難問ですが…。
目の前の事象にも穏やかにいられること、
心の我欲の原因を知り、共生している動植物、虫たちが天と繋がってそのままに生きていること、
人はさまざまな天地の波動、鉱物との繋がりなどで生きていることを知り、我欲が消えてしまうのでしょうか、
また内観します。
物事を良し悪しで判断しない人
平安、冷静でいられる人。感情に振り回されて自分を見失う事がない。
思いついた事書いてみました!
憎しみも望みもない者
自我を超越している者、自らのアートマンとひとつになり、おおいなるブラフマンとも
ひとつになっている者
憎しみと望みが同列に挙げられていることに少し不思議な気がしましたが、
両方とも語尾が tiで終わり韻を踏んでいることにも意味があるのだなと思いました。
個人的には憎しみは消えやすく、望みは残りやすいものと感じています。
これはなかなか消えません。
思い出すのは、クリシュナムルティは「何かになろうと思うことが人間の不幸の始まり」と言っていて
衝撃を受けました。
反対に、引き寄せの法則では「なりたい自分になる」「欲しいものを引き寄せる」みたいな安易な?我欲の達成に用いられることが多いように見受けられ、わたしはちょっと苦手です。
その原理はわからないでもなく、時には利用することもありますが、用心しています。
スピリチュアルの深いところを追求すれば我欲の達成は意味ないものとなるだろうとおもいます。
ネガティブ側を向いているか、ポジティブ側を向いているかの違いだけで、念のようなものとしては同じかなと思います。
「憎しみも望みもない者は・・・」
私の内観では
「憎しみ」は過去の出来事に対しての自分の望みとの違い
「望み」とは将来の出来事に対する自分の望み(希望)
時間軸が過去と未来とに向かっている違いで、
自分に取ってこんなことが起こると良いはずだという予測(希望)と
その予測との違いを苦しむことと思います。。
アートマンに立脚しているのでなければ、どのようなことが自分とって良いことか
わからないことが多いでしょうから、望みとの違いが多く、憎しみは多くなってしまいます。
全てのことが順調に進んでいると心から思えるのならば
憎しみも希望も無くなって今を体験することに集中できると思います。
そのような状態を少し具体的に表現するために、この言葉を使ったと思います。
戦ってきた相手も憎しみ合った相手も、自分の欲望も全て生を全うする為に用意したこと。
それに対しての感謝心の芽生え?!。
なぜこのような表現をしたのか
魂は、憎しみも悲しみも喜びも怒りも、いつも微笑みをもって過ぎていくのを俯瞰している状態に在りなさいと導いておられる。
魂の学びがまだたりません、穏やかに笑顔でいることを心がけています。食事もおいしくできあがりますね。
森井先生、お導きありがとうございます。
腑に落ちると感動します。
yo na dvesti na kanksati
憎しみも望みもない者
自分でジャッジしない…という事でしょうか。
どちらも他者と比較する自分がいるから生じるようです。
今日一日、頭の片隅に宿題を思いながら過ごしました。
マスクをして仕事をしていると…他者の目が気になり呼吸が早くなってきますが、その時のできる仕事に集中している時は心穏やかに過ごすことができました。
ブレない軸を持つことができる者、微笑みながら今を受け入れることができる者でしょうか。
「ほぉ、そうか」
と、
あるがままを受け入れる和尚のような方だと思い
ます。
時間とお金があれば私は精神性やヨーガの教えを追求させていただいたり、山の御神氣に触れに行きたいところですが、現状なかなかそうはいきません。
しかし、すべては完璧なタイミングで、絶妙な高次元の計らいが「今」を体感させているのだろうと思います。
「今」ここで学ぶべき現状があるから「今」があり、
「今」ここに感謝を見いだす為にも「今」があるはずかと思います。
この世は大変な修行の場かと思いますが、
神なる真我をより身近に感じる為にも
笑いや想いやりを大切に、愛と忍耐を持って臨みたいところです。
皆さまのコメントも読んでいて楽しくなります。
先生も、光の魂の皆さまも、いつもありがとうございます。
「憎しみ」は、憎むこと。"憎しみの対象"のことをずうっと考えていること。なので、心の中にずっと溜め置いているもの。「愛」を陰の方向で抱えてしまっている陰極にある気持ち。
「望み」は希望という欲望。"こうなりたい"と思うものに対してまだ達成していないので
「こうありたい、こうあらねば」と「愛」を陽の方向で抱えてしまっている
陽極の気持ち。
どちらも「愛」であることは同じで、陽か陰かどちらかに傾いている同じエネルギー。
なので並列して表現されたのだと思います。
ここでの授業は、⭕️❌形式ではなくて大好きです。
顔が見えなくても、同じ教室で同じ黒板を見つめている感じが心地いいです。うーん🧐と頭をひねり、ひらめいたり、ひらめかなかったり。手を挙げたり、挙げなかったり。手を挙げてない時も、手を合わせています🙏
いつもありがとうございます☺️
少しでも理解を深めようと、いろいろな手を使っています。
あるがままに、ということでしょうか。
己の欲、達成や支配を目指すのではなく、なすべきことをし、その結果を受け止める
そんな風に思えました。
少しでも理解を深めようと、いろいろな手を使っています。
あるがままに、ということでしょうか。
己の欲、達成や支配を目指すのではなく、なすべきことをし、その結果を受け止める
そんな風に思えました。
全て持っているとわかったから
かな
憎しみも望みもない者
憎しみは、望んだモノが得られなかったときに湧く。
望みが叶えられなければ、神にさえも憎しみをぶつける。
時々、瞬間的に
「周りの全ての人たちが愛おしい。今、ほんとうに満足し、感謝しかない。」と、思える時がありますが
それが、持続すれば良いな
という、望みが湧いたすぐ後から
雑事に飲み込まれて
不足感、苛立ち、願望が湧いてきます。
憎しみも望みも
自分自身の真の姿に意識を向けていない状態の時に、湧き上がる。
今ここの自分自身に、満たされて
このままありのままで良いと、完全に感じれるなら
憎しみを知らず、
何も望む必要がないと思います。
とてもシンプルで、わかりやすそうなのに、
深淵で、この言葉の意味を解釈する事も、言葉に変換してシェアするのも
とても難しいと感じています。
「憎しみも望みもないもの」
憎しみとは自我の対象者対象物があり、望みとは自我であり欲望
憎しみも望みもないものとは、
貴方もなく私もなく、、不滅のアートマン(真我)。
いずれも、かかる時に違いあってもアートマンへの道が、生まれ出でる理由。
アルジュナという自己自我が今ここになかったとしても、今の対象者は彼らの道を行き道中で魂の学びをする。それが悪の道ならば、対する側は毅然と立ち向かわねばならない。今ここ、その位置にはアルジュナの他に誰がいようか。
アルジュナにはすでに「憎しみ」はなく、自我による「望み」があるのみ。アルジュナの魂の学び場が今なのだ
アートマンへの扉前にいるアルジュナの「望み」という、残るカルマを滅するべく、クリシュナの想いを、一層感じる表現に思えました
以上です。
なんだかくどくてごめんなさい・
者 を時に変えて考えてみました。
憎しみも望みもない時、ってあるだろうか?
ありました。
亡くなる時。
それから赤ちゃんの時。
その時って 純粋そのもの。
相対を離れられたら、純粋 になれるの?
生きていて 純粋 で生きられる時って できるの?
本音と建前の世界ではなく?
いま?この時?
相対 を離れられたら?
クリシュナさんは コクン と頷いたような気がしました。
絶望とは、二元を離れた絶対的に俯瞰する意識。限りある物質世界。喜怒哀楽、感覚、感情、浮かんでは消える刹那的対象の世界を認識するもの。片方が消えれば、どちらも落ちる。
認識とは存在。「ない」という認識でさえ、「在る」。決して認識の対象とならない、すべてを内包し続ける永遠、無限の認識。
自我なくして、求めること叶わず、個が全体を認識することは決してない。究極の肯定と究極の否定は、同義。
結果に執着せず、ただ、それとして在る。
永遠なる現在進行形。
憎しみがないのはいいけど、望みがないのは寂しい。行き止まり、閉塞。前を向いて、希望を持って進みたい、と感じる根幹には何があるのだろう?
そう観じる、私とは何?
内に求めても、外に求めても、いつもここに還ってくる。私とは、何?
分からないということが、分かってる。
「問」は「問」として在り、与えたものを、受け取り続けている。外という内に、「在る」を観てる。私とは、内と外を渡すもの。
言葉や理屈を超えて、ただ、沸き立つもの。
行為であって、行為でない。それは、ただ、起こっている。瞑想は、対象を思考から解き放ち、エネルギー、波動へと変換する。外に、内に在るものを観てる状態。
先生の宿題は、時間を忘れます。
肯定と否定が同時に在る感覚です。
浮かぶすべては、「在る」という認識の上にしか立てない。
“今”に集中する者
を表現しているのかと思います。
望みのない者=委ねられる者
天啓を受け入れ、天啓にそった行いができる者
と感じました
私の道標となり、憧れ、希望となりました。
ありがとうございます、
憎しみも望みもない者
とはどのような状態なのでしょうか?
なぜこのような表現をしたのか
が今回の宿題です。
宿題をしてないと、落ち着きません。次が読めませ~ん。
憎しみも望みもない者とは、他人に対しても自分の事に対しても、外面(憎しみ)と、内面(望み)にエゴがないこととおもいますが、
なぜこのような表現をしたのか?
は、解からないので、少し、先を読んでみました。
そして、思ったことは、行者イコール、天命にそって、好きなことをしていく
のもありと思いました。それが悟りに通じると思います。
ただし、どの状況、段階においても執着を捨てている必要がありますが。
例えば、美容師が好きで なりたい場合、なんでもそうですが、作品に人柄が、現れます。雑とか、傲慢とか、センスりなしとか、相手を見て、似合うものをとか、それは、自分の中で努力、勉強、克服。これも行。
そして、人気が出てきたら、今度は又、それにおぼれずとか、それも行するに似ていると、思います。
人気が出てきて、もう、これ以上自分はしたくないと思っても、状況からみて(天から見て)するべき状況のときは、逃げずにする(ここで、毛が団子のようになった野良犬ちゃんのトリマーさんが浮かびました~)。戦いから逃げるなとは、ちょっと例えが~ですが、😭
一流の人は、ヨガとか、してる方が多い気がします。外面(社会的)と、内面(心の充実感、悟り)両方、必要ですが、どちらかを真剣にしていると、他も必要に応じて、楽しく(「私は何もしていない。感覚がその対象に働いているのすぎない。」と考える。(八、九)
みたいに、罪悪に汚されない。(一〇) 行動ができる。 のかな~~と、
いいな~~の、感想です。
宿題の答え???。
まあ、正解なしと、言ってくださっているので、訳わからん文ですが、
次を読みたくて。終わり。デス。
行?、半分???。
すべてが満たされていて。
あるがままに。
宇宙の創造主であられる大きな愛と繋がってる状態かと思います。
なぜこのような表現をしたのか?
一人ひとりに氣づいて欲しいからでしょうか。
光魂のファンです。
先生の自然の動画とMARTHさんの音楽に癒されております✨
感謝しております。
憎しみも望みもない状態とは
真我の世界であり、その世界は、真 善 美 の
静謐な 状態である。
なぜこのような表現をとるのか
真我の世界と自我の世界は 別であり、
自我の世界では感覚により触発する、憎しみや望み をいだきがちである。
その対比を わかりやすくするために このような表現をされている。
m(_ _)m
大海の海の底のように
穏やかで中庸で在る状態。
どちらかに偏ったり 否定したり
裁くことがない状態。
優劣や善悪、正誤を決めているのは
自我によるもの。
すべての二元性を超えていく。
日常の暮らしのなかで
よりひろく受け入れることや
より深く理解すること。
老若や男性女性や国籍、職業...問われることなく、皆の中にある
母性や寛容性が鍵になると思います。
分離や統合を経て
わたしたちは 超越に向かっている。
わたしたち全員の中に
クリシュナ=真我=内在神がある。
わたしたち全員に
行動し体現していくことを
全託されているのではないだろうか
憎しみも望みもない者。
自分が満ち足りて愛を体現化し、利他的に生きているから。
「今」を生き、先に続く輪廻転生を知っていて、全てを俯瞰し、ただ今この瞬間を生きているから。
輪廻転生を繰り返し、何度も経験して、ようやく理解し、様々な体験を経て、魂がやっと満足していく時に、現世でその境地になりたいと思うのでしょうか?
霊が肉体を作る、この奇跡の星に生まれ、もがきながらも進む私達。
今日倒れても、生まれ変わって再び歩き出すでしょう。
全てはあるがままもステキだし、霊峰の高みを目指して歩くのもステキ。
全てにありがとうございます
神の恩寵に感謝します。
振り子の真ん中の地点のような、フラットで中庸の状態でただ存在しているけれど、振り子はある意味動いていると表現できるのではないかと感じます。
水の流れが止まると澱むように、振り子は光のような速度で動いていて(振動?)、中庸の地点というのは振り子の両極のエッセンス(例えばポジティブとネガティブ)をも内包しているのではないか?と思いました。
だから憎しみも望みもない者は、振り子の両極を善し悪しで判断することもないし、全てはアートマンの現れであると理解し、俯瞰している状態なのではないだろうか...。
宿題の提出が遅れましたが、私はそのように感じました。
いつもありがとうございます。
サンスクリット語は、わからないながらも
言葉遊びの部分も楽しんでいます。
yo na dvesti na kanksati
憎しみも望みもない者
韻の踏み方だけでなく
単語に中にも、色々な意味を盛り込んでいると感じ
kanksatiのsatiが気になって、調べました。
sati とは
sati. パーリ語でサティ(巴: sati、梵: smṛti:スムリティ)とは、
特定の物事を心に(常に)留めておくことである。
他にも「気づき」やマインドフルネスと同義とあります。
憎しみだけでなく
望み自体も、心に常に留めていることは、
囚われであり、執着につながります。
そのことに気づいて、
感情を解き放ち
いまここ マインドフルネスに向かうこと
が瞑想の段階で起きていると思います。
「憎しみも望みもない者」とは、高次の存在のように、行為の動機は自己によらず、結果にとらわれない状態。
「なぜこのような表現をしたのか」
この戦いは、カウラヴァ100人兄弟たちが、優秀なパーンダヴァ兄弟の活躍に嫉妬し、次第に「憎しみ」に変わっていったことに起因している。ここでの「望み」は、肉体を纏っているからこその欲望のことで、これは解脱にもっとも障壁となる。この「憎しみ」と「望み」の二つの言葉は、バガヴァット・ギーターにおいてとても象徴的な言葉であり、クリシュナ(高次の存在)を的確に表すから。
というように思いました。
いつもありがとうございます。
肉体をもってこうありたいと思う望みも
こうあるべきという思いを相手にもち、
憎しみを抱くことも
魂の学びとしてこの地球にいるからこそ
生まれる感情。
つまり、アートマンが五大元素で創られたこの世界で何の影響も受けないように
人が抱くこの感情にも何の影響も受けない。
憎しみがお互いが正義を振りかざし、戦うことで生まれ、
望みは平和と繁栄を実現することであるならば、
この二つは、肉体をもって生きることで、自分で選択し生きることができると表現したかったのではないかと内観しました。
苦しみも望みもない
という状態は、いかなる状況に対しても
感覚的な反応を起こさない状態であるということ。
つまりは、自分の感覚器官を制御できている
そのような状態を指すのではないでしょうか。