神の詩 第二章第四十ニ~四十四節
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「愚か者はヴェーダ聖典の華やかな言葉を喜び、「これ以外には何もない」と言って(四十二)」
「欲望にふけり、天界への再生を求めて、快楽や権力を手に入れるための多様な特別の儀式について語り続ける。(四十三)」
「快楽と権力に執着して分別を奪われた人々には、三昧に入るための不動心は存在しない。(四十四)」
真我の存在すら知らずに
無智(無明)の中に在る人たちは、
自分の信じる聖典の
表面的な部分にのみ
陶酔する傾向があります。
無智(無明)の中に在る人たちは、
自分の信じる聖典の
表面的な部分にのみ
陶酔する傾向があります。
聖典を深く読むことなく、
実践を伴わないままでは、
表面的な理解だけに留まり、
曲解や
誤解や
偏見が生じてしまうことが
警告されています。
表面的な理解では、
欲望が消えることもなく、
低次元の欲望や権力を満たすために
様々な儀式や技法を
利用してしまいます。
実践を伴わないままでは、
表面的な理解だけに留まり、
曲解や
誤解や
偏見が生じてしまうことが
警告されています。
表面的な理解では、
欲望が消えることもなく、
低次元の欲望や権力を満たすために
様々な儀式や技法を
利用してしまいます。
霊的進化に沿った生き方を
日々実践するために、
聖賢たちによって
さまざまな儀式が行われてきました。
日々実践するために、
聖賢たちによって
さまざまな儀式が行われてきました。
それらの中には
心身に働きかけて
さまざまな体感を得ることができるものもあり、
当初は
儀式の所作と精神が合わさって
伝承されてきました。
でも
時と共に、
ほとんどの人は
表演的な部分だけで満足して、
長く探究することはなくなります。
心身に働きかけて
さまざまな体感を得ることができるものもあり、
当初は
儀式の所作と精神が合わさって
伝承されてきました。
でも
時と共に、
ほとんどの人は
表演的な部分だけで満足して、
長く探究することはなくなります。
そうすると
儀式の真の意味を理解しないまま
継代化されていき、
やがて
所作の深い意味は忘れ去られ、
形骸化した儀式だけが残ります。
儀式の真の意味を理解しないまま
継代化されていき、
やがて
所作の深い意味は忘れ去られ、
形骸化した儀式だけが残ります。
神社での参拝においても、
物質的な御利益ばかり期待し、
この日だけは御利益が一万倍だとか、
これを身に着けるとさらに御利益があるなど、
極めて表面的な行事として認識されるだけのものも
数多くあります。
物質的な御利益ばかり期待し、
この日だけは御利益が一万倍だとか、
これを身に着けるとさらに御利益があるなど、
極めて表面的な行事として認識されるだけのものも
数多くあります。
「愚か者はヴェーダ聖典の華やかな言葉を喜び、「これ以外には何もない」と言って・・」
神への信仰、
つまり
宗教を物質的なレベルに下げてしまったのは、
神を信じない唯物論者ではなく、
宗教指導者たちです。
つまり
宗教を物質的なレベルに下げてしまったのは、
神を信じない唯物論者ではなく、
宗教指導者たちです。
唯物論者たちは
宗教性を意識していないだけで無害ですが、
宗教指導者たちは
自己的な欲望と現世の利益を優先して、
宗教から
宗教性を否定してしまっています。
宗教対立による迫害や戦争が尽きないのも、
物質世界優先の表れでしょう。
宗教性を意識していないだけで無害ですが、
宗教指導者たちは
自己的な欲望と現世の利益を優先して、
宗教から
宗教性を否定してしまっています。
宗教対立による迫害や戦争が尽きないのも、
物質世界優先の表れでしょう。
サーンキャ哲学では、
真の宗教を
「人を三重苦(病・苦・無智)から永遠に守る普遍的原理」
と定義しています。
宗教の元に正義を語った戦争などは
論外になります。
現在の宗教は
その定義に当てはまるのでしょうか?
真の宗教を
「人を三重苦(病・苦・無智)から永遠に守る普遍的原理」
と定義しています。
宗教の元に正義を語った戦争などは
論外になります。
現在の宗教は
その定義に当てはまるのでしょうか?
「我々に教会はいらない。教会は、カトリックとプロテスタントのように、神をめぐる争いを教えるからだ。」酋長ジョセフ、北米先住民ネズパース族
「寝たふりをしている人を起こすことはできない。」北米千住民ナバホ族の言葉
「快楽と権力に執着して分別を奪われた人々」
執着は、
肉体意識から始まります。
肉体意識から始まります。
人は、
生まれてまもなく
肉体という衣服が自分自身だと思いこんでしまいます。
生まれてまもなく
肉体という衣服が自分自身だと思いこんでしまいます。
魂が肉体を纏うことによって、
肉体所有者特有の感情が芽生え、
執着が生まれます。
特に
肉体が若いうちは
肉体的な感覚器官が鋭敏なために、
簡単に満足が得られる方向へ向かうことが多く、
欲望と執着が定着しやすい環境に置かれます。
肉体所有者特有の感情が芽生え、
執着が生まれます。
特に
肉体が若いうちは
肉体的な感覚器官が鋭敏なために、
簡単に満足が得られる方向へ向かうことが多く、
欲望と執着が定着しやすい環境に置かれます。
感覚器官を中心に生きた場合には、
若者は
スポーツや娯楽、遊びに惹かれ、
成人になると性的活動が活発となり、
加齢とともに
物欲と執着の奴隷になっていく
という感覚器官に振り回されたままの人生となります。
若者は
スポーツや娯楽、遊びに惹かれ、
成人になると性的活動が活発となり、
加齢とともに
物欲と執着の奴隷になっていく
という感覚器官に振り回されたままの人生となります。
肉体感覚が
十分にコントロールできるようになると、
執着は消えていきますが、
コントロールしていく道を選ぶ人は
多くはありません。
すくなくとも
この聖典を熟読する人たちは、
すでに
感覚器官のコントロールが始まっています。
十分にコントロールできるようになると、
執着は消えていきますが、
コントロールしていく道を選ぶ人は
多くはありません。
すくなくとも
この聖典を熟読する人たちは、
すでに
感覚器官のコントロールが始まっています。
「三昧(サマーディ)」
サマーディは、
ヴェーダ辞典によると
「心が自己の本性を悟り、不動となった状態」
と定義されています。
肉体的な感覚をコントロールできない場合には、
不動心に成ることは不可能であり、
不動心を維持するサマーディ
となることもありません。
ここでは
欲望と執着が
いかに神への合一の妨げになるか、
サマーディと不動心について言及されています。
ヴェーダ辞典によると
「心が自己の本性を悟り、不動となった状態」
と定義されています。
肉体的な感覚をコントロールできない場合には、
不動心に成ることは不可能であり、
不動心を維持するサマーディ
となることもありません。
ここでは
欲望と執着が
いかに神への合一の妨げになるか、
サマーディと不動心について言及されています。
「ヨーガ・スートラ」の中では、
サマーディの過程をいくつかに分類し、
粗大な状態から精妙な状態へと
段階的に進行することが説明されています。
サマーディの過程をいくつかに分類し、
粗大な状態から精妙な状態へと
段階的に進行することが説明されています。
「ヴェーダ聖典は三つのグナ(要素)を扱う。アルジュナよ、三つのグナを超越せよ。
相対を離れて、常にサトヴア(善性)にとどまり、富の取得や保持を考えず、真我を確立せよ。(四十五)」
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コメント
コメント一覧
思いと行動はまだ、一致していません(あのさあ…)
仕事上では、自分は介護やケアの仕事ですので、認知機能低下や半身不随などの障害により、
家族と暮らすことが出来なくて(悪く言えば家族から見放されて…)
施設で暮らす人も多くいらっしゃいます。
そんな人たちはほとんど対症療法薬(劇薬、神経毒薬)の多剤大量投与を施行されているためもあり、
病気が治るどころか
神経系統は「霊性」から引き剥がされ、精神性は崩壊して、
「老年となって人から尊敬される」のとは、正反対の道を歩んでいる方が多いです。
こんな毒物を複数、こんなに毎日飲んだら、「死ぬんじゃね?」
と思うようなことを(素人判断ですが)、人間の命や真の健康を無視して
ガンガンと勧める有様は
現在のコロ枠接種にも通じるものが、多々あります。
そして有毒な洗剤や柔軟剤を大量に使用していたり、除菌剤でテーブルや椅子を拭くのは当たり前のことです。
(私は個人的には、そんな化学物質はほとんど使わず、水で洗ってますが…バレないようにして…)
そんなふうにして、霊性の崩壊した人と接する辛い場面では、
もし自分が『パラマハンサ・ヨガナンダ師』だったら…
どうするだろうか…
と、考えるようにしています。
もしヨガナンダ師が時空を超えてここに居たならば、
どう考え、どういう態度を取り、どう行動するだろう
と、「想像してみる」のです。
するとなぜか、自我から少し離れることができるようです。
そして、出来るだけ、想像の通りに、「真似」してみるのです。
ご先祖様から受け継いだ土地に感謝して、長男をそこに縛り付ける。先祖からの恵が代々途絶えぬように、貴重な人生を拝みに捧げる。これって、信心の形をとつた現生利益を途絶えないようにする魔術じゃないか?魔術は目的のものを得るために、自分の大事なものを交換しなければならない。信心深い人ほど失ったものが大きかったように見えるのですが。与えるのではなく、与えられることを喜んだ瞬間、ヤラレル。
儀式や場所、道具や秘密の言葉。
真我に到達することなく、肉体としての個我の視座から欲望を満たそうとすることに終始していました。
本やセミナー、ネットに答えを求め、自らの内にそれを求めることをしていませんでした。楽しさ優先。刹那的な喜びの中に逃げ込んでいました。
欲にまみれてみて、分かること。
それは、決して満足できないということ。
無限の欲求は、正しい方向へ向けられれば『霊的推進力』に変わる。
決心して、実践する。
言い訳は、終わりにしよう。
肉体的な欲望が入る余地が無いほど、神を求める。先ずは、1日10分から。
最近は、それが1時間程度までのびました。
何とか毎日続けています。ありがとうございます。