神の詩 第二章第四十五節
「ヴェーダ聖典は三つのグナ(要素)を扱う。アルジュナよ、三つのグナを超越せよ。
相対を離れて、常にサトヴア(善性)にとどまり、富の取得や保持を考えず、真我を確立せよ。(四十五)」
三つのグナとは、
サトヴァ(善性・純性)、
ラジャス(激性)、
タマス(鈍性)
です。
サトヴァ(善性・純性)、
ラジャス(激性)、
タマス(鈍性)
です。
これら三つの均衡がとれている時には
平穏であるものの、
少しでも不均衡が生じるとその差異が変動を生み出し、
あらゆる種類の形態へと発展していきます。
それがこの宇宙を形成していて、
私たちのいる地上は
三つのグナによって
複雑に形成された末端部分になります。
つまり
グナの観点から見ると、
私たちを含めすべてのものは、
この三つのグナの均衡によって作られています。
平穏であるものの、
少しでも不均衡が生じるとその差異が変動を生み出し、
あらゆる種類の形態へと発展していきます。
それがこの宇宙を形成していて、
私たちのいる地上は
三つのグナによって
複雑に形成された末端部分になります。
つまり
グナの観点から見ると、
私たちを含めすべてのものは、
この三つのグナの均衡によって作られています。
この三つのグナは、
サティヤ・サイ・ババ大師が、
扇風機の三つの羽に喩えて
わかりやすく説明しています。
サティヤ・サイ・ババ大師が、
扇風機の三つの羽に喩えて
わかりやすく説明しています。
扇風機の三枚の羽がばらばらに動いていたら、
涼しい風を作ることはできません。
三枚の羽が揃って動くときに、
一つの羽のように振る舞い扇風機は
風を作ることが出来ます。
涼しい風を作ることはできません。
三枚の羽が揃って動くときに、
一つの羽のように振る舞い扇風機は
風を作ることが出来ます。
同じように
三つのグナが一つに融け合ったときに、
はじめて至福の状態に至るのです。
三つのグナが一つに融け合ったときに、
はじめて至福の状態に至るのです。
扇風機の三枚の羽が
三つのグナに相当します。
知性理性がスイッチです。
アートマから放たれているエネルギーが電気になります。
三つのグナに相当します。
知性理性がスイッチです。
アートマから放たれているエネルギーが電気になります。
最近は、
効率よくマニュアルによる要領の良い楽な方法が
もてはやされるようになりました。
でも、
それは一歩間違えば、
タマス(鈍性)の性質に囚われることになってしまいます。
効率よくマニュアルによる要領の良い楽な方法が
もてはやされるようになりました。
でも、
それは一歩間違えば、
タマス(鈍性)の性質に囚われることになってしまいます。
例えば、
十年間老舗の鮨屋で修業するのと
三か月鮨の学校でマニュアルの勉強をするのとでは、
どう違うのでしょうか。
やはり
十年分の技術の中には、
目には見えない精神や
マニュアル化できない技などが
しっかりと身につくはずです。
それらは、
数か月のマニュアル教育では得ることができません。
十年間老舗の鮨屋で修業するのと
三か月鮨の学校でマニュアルの勉強をするのとでは、
どう違うのでしょうか。
やはり
十年分の技術の中には、
目には見えない精神や
マニュアル化できない技などが
しっかりと身につくはずです。
それらは、
数か月のマニュアル教育では得ることができません。
十年間が苦労だと思うか、
喜びだと思うかは、
三つのグナがバランス良く融合しているかどうかによります。
喜びだと思うかは、
三つのグナがバランス良く融合しているかどうかによります。
霊性進化の道には、
マニュアルのスピードコースはありません。
地道に歩んでいくしかありません。
マニュアルのスピードコースはありません。
地道に歩んでいくしかありません。
山に登るのに、
一歩一歩自力で歩かなければならないのと同じです。
老若男女、
地位や名声に関係なく、
誰もが自分の足で
確実に歩んでいくのです。
一歩一歩自力で歩かなければならないのと同じです。
老若男女、
地位や名声に関係なく、
誰もが自分の足で
確実に歩んでいくのです。
現在では
苦行など必要ない
という風潮ですが、
苦行も心構え次第で
とても役に立つものなのです。
どんな時代であっても、
苦行の持つ大切な力を無視することはできません。
苦行など必要ない
という風潮ですが、
苦行も心構え次第で
とても役に立つものなのです。
どんな時代であっても、
苦行の持つ大切な力を無視することはできません。
サイ・ババ大師は、
神と別れていること自体が
苦行だといいます。
苦行を喜びに変えるのが
三つのグナの調和です。
神と別れていること自体が
苦行だといいます。
苦行を喜びに変えるのが
三つのグナの調和です。
この三つのグナは、
相互作用によって成り立っているので、
どれか一つが単独で存在することは出来ません。
そのため、
このグナの影響から離れる時には、
三つのグナすべてから離れる必要があります。
それにはまず、
物質世界から精妙な世界へと移行していく必要があります。
相互作用によって成り立っているので、
どれか一つが単独で存在することは出来ません。
そのため、
このグナの影響から離れる時には、
三つのグナすべてから離れる必要があります。
それにはまず、
物質世界から精妙な世界へと移行していく必要があります。
「富の取得や保持を考えず・・」
ここは
サンスクリット語では
niryyoga-ksemah
となっています。
これは、
この状態では持っていないものはなく、
また、
持っているものを所有する必要が無い
という意味が含まれます。
ここは
サンスクリット語では
niryyoga-ksemah
となっています。
これは、
この状態では持っていないものはなく、
また、
持っているものを所有する必要が無い
という意味が含まれます。
人間の地上世界での諸問題は、
すべてこの所有欲や征服欲から生まれます。
今回の戦争も
そこから始まりました。
これは
地上世界のあらゆる混乱や問題から
解放されることを意味しています。
すべてこの所有欲や征服欲から生まれます。
今回の戦争も
そこから始まりました。
これは
地上世界のあらゆる混乱や問題から
解放されることを意味しています。
アルジュナは、第一章31節で
「クリシュナよ、私は勝利も王国も、快楽をも望んでいない。」
「クリシュナよ、私は勝利も王国も、快楽をも望んでいない。」
同じく第一章32節では
「王国も、快楽も、生命さえも、何になろうか、ゴヴィンダ(クリシュナ)よ。」
とあります。
この時点で、
アルジュナは所有欲を脱する資質を培ってきていました。
クリシュナは、
この思いに今回の節で答えを説いています。
「王国も、快楽も、生命さえも、何になろうか、ゴヴィンダ(クリシュナ)よ。」
とあります。
この時点で、
アルジュナは所有欲を脱する資質を培ってきていました。
クリシュナは、
この思いに今回の節で答えを説いています。
クリシュナは、
アルジュナに三つのグナを超越して、
二元性の世界を脱して、
真我に達しなさいと、
人間を至高の境地へと導く明確な道を示しました。
次は
ちょっと飛ばして
第三章のはじめの部分を見てみましょう。
来月第三章まで発売するため、
ちょっと先読みです。
よく内観してみてください。
そして
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アルジュナに三つのグナを超越して、
二元性の世界を脱して、
真我に達しなさいと、
人間を至高の境地へと導く明確な道を示しました。
次は
ちょっと飛ばして
第三章のはじめの部分を見てみましょう。
来月第三章まで発売するため、
ちょっと先読みです。
アルジュナ
「クリシュナよ、知識が行動よりも勝れていると考えるなら、なぜあなたは私にこの恐
ろしい行動を強いるのか。(一)」
「あなたの錯綜した言葉に、私は困惑しているように思える。私が至福を得るためにたどるべき道を、はっきりと語りたまえ。(二)」
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コメント
コメント一覧
たとえがとてもわかりやすくて感嘆です。
「自己」と「他者」が分離してるからそこに支配欲などが生じてくるのですよね。
今、オリンピックが盛り上がって(?)ますが、
個人的には早く終わってほしいです。
いろんな選手ががんばっている姿を見るのは楽しいのですが、メダルをとった人たちだけにスポットライトをあてるのは疑問です。たくさん努力してがんばったひとつにたちもたくさんいるだろうに…。
あとやたら「日本」だけを応援するのも違和感なんですよね…。「日本」という国が嫌いなわけじゃないんです。むしろ大好きなんです、日本。
でも他国と競ってる姿、それを煽るような姿はどこか戦争を彷彿とさせてイヤなんですよね…。
非国民?
実はオリンピックや世界大会で日本を応援したことない私です。むしろ発展途上といわれてる国を応援してます。
利権やお金がからんでなく、純粋にスポーツを楽しめる祭典であってほしいですね。
魂は経験を通して磨かれるもの。
それが苦しければ苦しいほどたくさん磨かれる。
我欲を手放しやすくなる。
そして知識があれば迷わずに進めますよね。
知識というよりは智恵になるのでしょうか。
険しい山道を歩くとき、ガイドさんがいたほうが
より正しい道をいける、そういうことでしょうか。
私はまだまだ迷ってばかりですが、先生のブログや本のことばが道しるべです。
今回はいつもと違って、そのまんますぎて難しいですね…,
アルジュナは極限の破壊行為を指示されているのですよね?
物質界での霊性の向上の為には、行動が必要ですが、破壊行為も必要という事でしょうか?
もしくは、それを受け入れて、行動を起こそうとした時に次の何かが見えてくるという事かな…,
もしくは本質を理解していれば、全てを包括できる行動の方法があるのかなとか…,
サッパリわからなくなってきたので、救いのガイドを求めるアルジュナの気持ちが良くわかりますね…。
皆さんのシェアと師のガイドにいつも通り頼らせてくださーい。
いつもありがとうございますm(_ _)m
恐ろしい行動を強いる人にも出会わず、この年になってしまいました。
正確に言うと、いたのかもしれませんが、従うと、その方の迷惑、重荷になるような気がしました。
でも、それは、したくない逃げたい心と、信頼心が足りなかったのかなと。振り返っています。
…というか、あまり勉強していません。
サイババ様の著書は、10冊以上持っていましたが、「あるヨギの自叙伝」とともに売ってしまいました(アホです…)
その昔インドで、ババ様の手から「ビヴーティ」という粉をいただいて、保存していたのですが、人にあげたり、舐めたりしているうちに
なくなってしまいました。
ババ様はそのとき、私の手を掴んで、ジッと目を見つめて、
おっしゃったのでした「I love you…」(笑)
英語が苦手な私でも、さすがにこの英語は分かりました。
私はその前に、福岡の「アンデルセン」という喫茶店に行って
不思議なマジックを見ていたので
やはりこのビヴーティも、手品で出したのか?…などと思い
あまり意味が分かりませんでした。
また、サイババ様はリップ・サービスで、「I love you」
などと言うかどうかも、分かりません(笑)
その後、私は1998年の長野オリンピックの年に、飲酒が原因で下痢をして、
胃薬を何回か飲んだところ、多分「胃薬」が原因で、
「痔瘻」になってしまいました(まだ若かったのに…)
そして、日本で唯一、アーユルヴェーダで痔瘻の治療をやっている、富山県立病院へ行って、アーユルヴェーダの薬剤を染み込ませた糸で縛って、一週間以上かけて患部を切って、治療しました。糸は毎日交換しましたが、思いやりのない医者がやると、死ぬほど痛かったです。
メスで切れば一日で終わるのに、10日間位かかりました。
痔瘻は、手術しなければ治らない、かなり深刻な病気であることを知りました。
市販の総合胃薬が、いかに体に悪い劇薬が含まれているのか、今になってわかりました。
多分胃薬以外の西洋薬も、様々な深刻な病気の原因になっている場合があると思います。…気が付かないだけで…
毎日、丁寧にお話しくださり、教えてくださり
ありがとうございます。
先生は何を伝えたいのだろう?第三章第一節をどう理解すればいいのだろう?と頭を抱えました・・。
そして、今までの内容を振り返ってみたり、手元にある本達に答えを求めたり。
「わからなーい!」と叫びたいところを、力を抜いて俯瞰してみると・・
四国霊場の「発心の道場」→「修行の道場」→「菩提の道場」→「涅槃の道場」が頭に浮かびました。
そして、今日のブログを落ち着いて読み返してみると、サトヴァ、ラジャス、タマスの3つの均衡が大切と教えていただき、扇風機に例えて分かりやすく説明してくださっていました。
第三章第一節、第二節
アルジュナ
「クリシュナよ、知識が行動よりも勝れていると考えるなら、なぜあなたは私にこの恐
ろしい行動を強いるのか。(一)」
「あなたの錯綜した言葉に、私は困惑しているように思える。私が至福を得るためにたどるべき道を、はっきりと語りたまえ。(二)」
第一章では、実践に入る前の心構え
第二章では、実践に入るための知識
第三章では、実践の仕方
なのでは、と思いました。
そして、扇風機の3つの羽は「知識」「行動」「放棄」
の
智慧の伴ったもの。
机の上だけの知識、やみくもな行動、投げやりな放棄
では、駄目なので、順を追って、きちんと教えていただいているのだと思いました。
本当にありがとうございます。
第二章で、アルジュナは、
永遠不変である魂の本質、
感覚や欲望の制御、忍耐、
結果に執着しないことなど、
神との合一の道を教わりました。
これらの知識と戦うことが
矛盾するように感じられ
とまどいながらも、
「janardana ジャナールダナよ」
(カルマの法則を支配している神よ)
「kesava ケーシャヴァよ」
(光り輝く無限のアンテナをもつ神よ)と
真摯に教えを乞うアルジュナ
クリシュナへの呼びかけ方も変わってきていますね。
アルジュナの切望に応えて、第三章は、
知識を行動に活かすための詳細について
説かれるのではないでしょうか
純性の質が低いと、推進力が本質の熱性は、考え方の誤りを助長して実現化してしまう。ということは、不均衡の根本原因は純性の質ということになる。しかしながら、そもそも熱性にも節度があれば、とんでもないところまではいかない。鈍性は熱性の勢いに乗っかって、それを緩めながら持続させる。この時、緩める力を大きくすれば勢いは止まるので、純性を立て直す時間ができる。純性に反省力があれば考え直しは早い。でも、鈍性はその文字のごとく、熱性に対抗するのは苦手そうなので、ズブズブになるしかないかな。
どれの何が悪いのかは、結局上から俯瞰してみないとわからない。3つの外に出なければいけないというのは、その通りですね。
3つのグナを光の3原色にたとえると、青(純性)赤(熱性)緑(鈍性)。色の3原色だと、青(純性)赤(熱性)黄(鈍性)といった感じでしょうか。緑は植物的な受容性のイメージ。対して黄は、依存とか幼稚といったイメージ。これは、受容性と依存を取り違えると、透明な光が真っ黒になるということか。一般大衆の罪は意外と大きいかもしれない……。
「言葉で理解するものではない」のかも知れませんが、思考によって目的や方向性を掴むことが出来ないと、動き出すことも出来ず、閉じた空間を迷走してしまいそうです。
「超越すべきもの」が何であるかも分からず、「超越しなくてはならない」ことを告げられる。「何を」「どうやって」?
「欲望を放棄しよう」と「放棄する」ことを望み、獲得しようとする矛盾。「手放すこと」を「為す」とは?
放棄とは、行為なのか?
行為者の不在という俯瞰の中で、すべてを「働き」として観ている意識へ還る。
観ているのか?観られているのか?
分からなくなる。
内観し、コメントするまで時間がかかり、先生の解説まで間に合わない日々。でも、自らの学びのペースで、遅れ遅れでもコメントしようと思います。これが、今の私です。
ここだけで理解しようとしないでいいのです。
また後の章で別の角度から同じものを繰り返し解説していきます。
そこで理解が深まると、視野が拡がってくると思います。
今回発売する本も3冊出ます。
何故かと言うと、第三巻から読んでもらいたいからです。
まず第三巻を読んで、それから第一巻、第二巻、そして第三巻を読むと理解し易いです。
三巻から読む!
知らずに三巻セットで購入したら、間違いなく一巻のはじめから読むところでした。
分からないところは、無理に理解しようとせず、いずれ分かるときがくるだろうと思って進めていくことにします。
性格的に、はじめから順番に理解して、躓くとそこに暫く留まる傾向があります。一休みすることも大切ですね。先生、ありがとうございます。本の発売を楽しみにしております。
今回の記事でハッとした事は、3つのグナは 相互に作用していて 単独で存在し得ないという部分から、それを超越する、つまり 『相対を離れる』= 動揺しない境地に達し、さらにそれを何ものにも揺るがせない状態にし続ける という事が、真我に達する為に必要なのだな と、再認識しました。
中庸を保ち続ける…というイメージでもあります。
地上生活で、どんな波が来ても 揺るがない。
今、ここに生きる自分にはとても難しく、その境地に至る智慧を頼りにさせて頂きたいと思います。
毎日、本当にありがとうございます!
「純粋知性が目覚めると、思考は消えて、
ただ在る状態になり、観照するという行為だけが残る。
観照とは、思考を入れずに、あるがままを観ること。」
とあります。
対象に思考や観念などで一切の色をつけない。
いかなる思考も観念も概念も存在しないところ。それらのものがない時、ただ全てが、
あるがままに在る。
目の前に<あれ>があるとします。
もし、私の中に観念や言葉など、そういった全てがないのなら、目の前の<あれ>とは何なのでしょう。
<あれ>を『×××』と意味づけても、
『×××』とは単なる名前であり言葉に過ぎす、<あれ>自体ではありません。
『×××』と名付けられた<あれ>を『×××』という言葉で知ることはできません。
でも、<あれ>は目の前に存在しています。
その色や形を眺めるでしょう。
その匂いを嗅ぐでしょう。
触って感触を確かめるでしょう。
しかし、その色や形に意味を与えることはしません。
その匂いを好きとか嫌いとか判断しません。
その感触について硬いとか柔らかいとか何一つ観念を持ちません。
<あれ>は動き、変化をしています。
<あれ>は私の外にあるように見えます。
でも、<あれ>と私は分離などしていません。
<あれ>は私であり、私は<あれ>なのです。
観照とは、
何か対象があって、それを観察することではなく、ただ全てが私であり、その全ての私を私が観ている、一切の思考を入れずに。
「在る」ことも「ありのままに観る」ことも「赦す」ことも全部同じことのように思いました。
自分にはどのような思考や観念があるのか、
何と誤って自己同一化してしまっているのかを、日常の生活こそ知る機会になりますね。
※『×××』も<あれ>も、解釈は自由にアレンジして下さいね♡(*´艸`*)
いつも本当にありがとうございます。
同じく対比シリーズの2章69節。
(感覚の世界で眠ったままの者と目覚めている者についてを対比した、この詩節がとっても好き♡)
感覚を満たすだけなら、動物に生まれてもできる。
人間としての肉体は、感覚を満たすために纏っているのではないと、考えさせられます。
朝と夜が同時に訪れることがないように、感覚の世界で目覚めていたのでは、いつまでも賢者のように静かな眠りにつけないのですね。
何重にも意味を携えて(まだ未知ですが)、
真理が8音節×4の文字列の形式美の中に組み込まれ、きれいに対比している。
ローマナイズされたそれらの文字列を眺めているだけでも神知(感じ)てしまう♡
あっ…ぁあん♡
理解が深まるにつれ、白色の700ピースのジグソーパズルが1つ1つカチッとはまる瞬間が訪れる。
そうしてピースが埋まっていくと解脱に向かう地図が段々と浮き上がっていく。
なんかもう、ワクワクしちゃいます。
因みに……
昨日、四股スクワットをしているとき、ふと気づくと、一回ごとにクリシュナ神に捧げるような感覚とともにやっていて……
自分でもびっくり(@_@;)
ひょっとして、
『バーガヴァタ・プラーナ』効果?!
(だから、なにそれ 笑)
股座に神様は寄ってきてくださるのかしら?!
磐座じゃないけど……
寄るかっ(>ω<)
いつもありがとうございます。
訂正です。
朝と夜が同時に…
→昼と夜が
ギーターの要である、
サーンキャ・ヨーガの教えが、二章で最初に説かれていることの意味が、今になって漸く分かるような気がします……
無智ゆえの根源的な迷妄を取り払ってくれようとしている、クリシュナ神の愛情を感じました♡