「クリシュナよ、知識が行動よりも勝れていると考えるなら、なぜあなたは私にこの恐
ろしい行動を強いるのか。(一)」
「あなたの錯綜した言葉に、私は困惑しているように思える。私が至福を得るためにたどるべき道を、はっきりと語りたまえ。(二)」
アルジュナは、
今までのクリシュナの深い言葉が
完全には理解できずに困惑した状態となっています。
今までのクリシュナの深い言葉が
完全には理解できずに困惑した状態となっています。
自分自身が体験したことのない領域を
言葉で説明されたときに、
完全に理解できる人などいません。
ましてや
「あなたの錯綜した言葉」
と表現している禅問答のような、
一見矛盾しているかのような言葉の場合には
特に難しいでしょう。
一つ一つ
日常の思いと
言葉と
行いによって
時間をかけて理解していくしかありません。
言葉で説明されたときに、
完全に理解できる人などいません。
ましてや
「あなたの錯綜した言葉」
と表現している禅問答のような、
一見矛盾しているかのような言葉の場合には
特に難しいでしょう。
一つ一つ
日常の思いと
言葉と
行いによって
時間をかけて理解していくしかありません。
このアルジュナの質問は、
アルジュナが
第二章の言葉を理解していないからではなく、
クリシュナの語る真理の細かい点までを把握した上で、
矛盾しているかのような部分について
質問しています。
それは、
まだ語られていない
智慧と行動の関係について
もっとよく理解したいからです。
アルジュナが
第二章の言葉を理解していないからではなく、
クリシュナの語る真理の細かい点までを把握した上で、
矛盾しているかのような部分について
質問しています。
それは、
まだ語られていない
智慧と行動の関係について
もっとよく理解したいからです。
このアルジュナの言葉は、
この聖典を読んで理解するまでには、
誰もが
しっかりと時間をかけて内観し、
実践し、
自分の智慧へと
変容させていく大切さを示しています。
この聖典を読んで理解するまでには、
誰もが
しっかりと時間をかけて内観し、
実践し、
自分の智慧へと
変容させていく大切さを示しています。
ある師が、
「食べなさい、でも食べてはいけない。」
と言ったとしましょう。
文字通りに受け取っただけの弟子であれば、
困惑するのではないでしょうか。
師は、
食べなさいといいながら、
食べてはいけない
と忠告していることを
理解できないかもしれません。
「食べなさい、でも食べてはいけない。」
と言ったとしましょう。
文字通りに受け取っただけの弟子であれば、
困惑するのではないでしょうか。
師は、
食べなさいといいながら、
食べてはいけない
と忠告していることを
理解できないかもしれません。
師としては、
「人によって食べるべき理由は千差万別であり、
また食べてはいけない理由も千差万別である、
それをよく心して食しなさい。」
という思いがあったことでしょう。
これは、
師の教えを深く理解することと、
食事を頂くときの心構えを通して
感覚器官の制御を学ぶことを意図した言葉なのですが、
文字通りの理解では
一見矛盾しているようにも思えることでしょう。
「人によって食べるべき理由は千差万別であり、
また食べてはいけない理由も千差万別である、
それをよく心して食しなさい。」
という思いがあったことでしょう。
これは、
師の教えを深く理解することと、
食事を頂くときの心構えを通して
感覚器官の制御を学ぶことを意図した言葉なのですが、
文字通りの理解では
一見矛盾しているようにも思えることでしょう。
ある時、
神は、
善人ヴィドラに向かって
「死になさい」
といいました。
そして
悪人ドゥシャーサナに向かって
「千年も生きなさい」
と言いました。
これも
文字通り読んだだけでは
理解し難い言葉になります。
神は、
善人ヴィドラに向かって
「死になさい」
といいました。
そして
悪人ドゥシャーサナに向かって
「千年も生きなさい」
と言いました。
これも
文字通り読んだだけでは
理解し難い言葉になります。
これは
善人ヴィドラには、
自我を滅しなさい
という意味であり、
悪人ドゥシャーサナには、
千年に渡って地上での苦しみを体験しなさい
という意味なのです。
善人ヴィドラには、
自我を滅しなさい
という意味であり、
悪人ドゥシャーサナには、
千年に渡って地上での苦しみを体験しなさい
という意味なのです。
至高の存在である神の行為の真意は、
地上の人の制約された思考では
見抜きにくいものも多くあります。
地上の人の制約された思考では
見抜きにくいものも多くあります。
「イーシャ・ウパニシャッド」
の中には次のような記述があります。
の中には次のような記述があります。
「至高の存在は、歩くが、歩かない。遥か遠くに存在するが、非常に近くに存在している。万物万象の中に内在しているが、万物万象の外側にも存在する。」
これも
通常の人間の思考の範囲を遥かに超えた領域を表現されています。
通常の人間の思考の範囲を遥かに超えた領域を表現されています。
水の中にだけ生きている魚にとって、
大空を飛ぶ鳥の言葉は理解しがたいのと似ています。
大空を飛ぶ鳥の言葉は理解しがたいのと似ています。
でも、
今までの会話とアルジュナの今までのすべての行動から、
実は
思いもよらない驚くべきことがわかります。
この聖典すべてを見通して、
よく内観してみてください。
その真相は、いずれ明かしましょう。
今までの会話とアルジュナの今までのすべての行動から、
実は
思いもよらない驚くべきことがわかります。
この聖典すべてを見通して、
よく内観してみてください。
その真相は、いずれ明かしましょう。
これ以降
第十八章まで、
クリシュナは、
第二章で語った
霊性進化の道や感覚の制御、魂の本質などを通して
神との合一までの道のりを、
もう一度詳細に語っていきます。
続きます。
ひかたまインスタ
今日もありがとうございます。
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クリシュナは、
第二章で語った
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コメント
コメント一覧
と言われたときに
お供物のように、
『その気を頂くという行為によって食べる』ということとしなさい
であろうかと即座に受け取ってしまいました。
すると、それ以上別の解釈を試みることを、ナチュラルに、しない(not do)私がいました。
そして、次行へと目を遣り、はたとした次第です。
そう、書かれているその意味がありますと。
師としては、
「人によって食べるべき理由は千差万別であり、
また食べてはいけない理由も千差万別である、
それをよく心して食しなさい。」
という思いがあったことでしょう。
このところ特に私が個人的に思いあぐねていた食における疑問に対する解答(の1つ)を頂きました。
また、
「至高の存在は、歩くが、歩かない。遥か遠くに存在するが、非常に近くに存在している。万物万象の中に内在しているが、万物万象の外側にも存在する。」
こちらもとてもありがたき導(しるべ)であります。
と同時に、俗世で生きる者が、
水の中で生きる魚(の状態)でいるときには、魚の心と言葉で、
大空を飛ぶ鳥(となりて俯瞰に臨み、空の境地)でいるときは、その状態に相応しき心と言葉で、
日常を(敢えて時に丁寧に)大切にコミュニケーションして行きたいと思っています。
「至高の存在は、歩くが、歩かない。遥か遠くに存在するが、非常に近くに存在している。万物万象の中に内在しているが、万物万象の外側にも存在する。」は、真理であると思います。至高の存在なればです。
『泥中の蓮の花が咲いたのち、
実る蓮の実(のうち)に至高が宿る』というような思いに囚われて今は狭量で干涸らびて弾力を失ったこころもちのする我が身です。
このような心持ちでおります者にバガヴァッド・ギーターが沁みて参りますか、不安を超えることは・・・(元の木阿弥では済まされませんよね)。
至高の存在は、歩くが、歩かない。
→真理は、限定した人に伝えるが、その真理は多くの人へ周知され広がっていく様
そして、至高の存在はいつもそばにいる
と、捉えました。
全く違うかもしれませんが笑
この言葉解き、面白くて、自分なりの解釈を楽しんでいます。人生を重ね、見返すたびに解釈も変わってゆくのでしょう、分かる日が楽しみです。
いつもありがとうございます。
「食べていいよ。でも、食べたらやばいよ。」
と言われると、「食べたもので自分が変容する」という解釈ができるなあ。
先に先生の解説に触れようが触れまいが、自らの内にしっかりと落とし込み、日常の中で、内と外にそれを見つけることが大切で、言葉での理解だけでは不十分だと感じました。そして同時に、「遅れる」という感覚も薄れていることに気付きました。
適切なときに、それは訪れる。呼吸のように、そのときをしっかり支度して待ちます。
ありがとうございます。
ナイスタイミングで繰り出されるアルジュナの質問。
「矛盾している」ときなのではなく、
あくまで「矛盾していると思われる」ときに。
だって絶対的真理であるクリシュナの言葉が「矛盾している」ことはあり得ないから。
逆に、矛盾していたらそれはもう相対的世界の言葉になり下がってしまう。
それはもはや神の言葉じゃない!
ドリフの神様コントになっちゃう!
「知識こそが真の自由へと導くと言っていたのに、行動することを求めるのは何で?」
とアルジュナが混乱する場面の3章2節。
ここで、アルジュナはクリシュナに
「あのぅ、矛盾しているのですが?」
とは言っていません。
「あなたの錯綜した言葉に困惑している」
と言って自分の理解力不足として捉え、
ちゃんと言葉に気をつけています。
クリシュナが正体を明かす場面の4 章4節でも、
「あのー、仰っていることが矛盾していますが?」とは口が避けても言わず、
「どのように理解したらよいのか」
と言っています。
アルジュナの質問の際の言葉の発し方に、
ちょっと引っかかる感じがありました。
でもこれは、クリシュナが正体を明かす前から、アルジュナがクリシュナの言葉に疑念を抱かずに信頼していたからこその言葉の発し方だったのかなと。
そしてこれは、とりもなおさず、聖典と向き合うときの態度そのものでもあるのかなと。
聖典は絶対的真理たる神の言葉であり、
そこに矛盾はない。疑念を抱く余地すらなく、全信頼を寄せて受け取るべし!みたいな。
アルジュナが戦いたくないのに、
クリシュナに戦いなさいと言われた場面で
「いくら魂が不滅だからって、人を殺していいはずがないよな…」なんてクリシュナの言葉にケチをつける読み方はアウトなのです。
続きます……
タヌキチ(コロアンティーナ)なら、
クリシュナに、
「えぇーー?!そうなのーー!!
矛盾してるよーー!」
とすかさず突っ込んでいそうだけれど。(笑)
因みに
3章2節の解説にある
「食べなさい、でも食べてはいけない」
の例え話に、私はお約束の軽いツッコミをしておきました。
「せめてどっちかに言い切って!」
モヤモヤするから。(笑)
いつも本当にありがとうございます。
聖典と向き合うときの態度へとつながり、
それを
「聖典は絶対的真理たる神の言葉であり、全信頼を寄せて受け取らねばならないもの。
とのメッセージとして受け止めた」
というようなことを先日書きました。
それと、本日の解説。
「供物とは、
物質的な物だけを指すのではなく、
目に見えないもの、
信頼の気持ちや献身の思い
などを指しています。」
そうか!
聖典を読む行為は、神への供物を捧げることなんだ。
という意識が、あらためて自分の中に高い感度で落とし込まれました。
そういう意識がすっかり抜け落ちていたことに気づきました。
ギーターに全力で置き去りにされているからといって、それが何だというのだ!
よけいなはからいを捨て、
見返りを求めない献身的な活動を捧げればいいのだ!
(ただいま、マルクス・アウレリウス風に転調モード中♪)
モード戻します。
日常生活の全てを神への供物を捧げるものとするヨーガの生き方は、
世の中に平積みされている生き方よりも、
もっと深いところにある動機づけとなり、
私にとって、
「オチをつけたくなる習性」と同じくらい
スタンダードになりそうです。
知らんけど。
知らんのかいっ。
冗談です。(>ω<)
オチ、つけたがるよね〜。(笑)
いつも本当にありがとうございます。
既に深い理解に達しているところから発せられていることに、
「えっ、いつの間にこんなに意識高い系になっていたの、アルジュナよ」と、
ずっと私の意識との錯覚のようなズレを感じていました。先生の解説を読む度に。
「知識こそが真の自由へと導くと言っていたのに、行動することを求めるのは何で?」
と単純にアルジュナが混乱しているようにしか思えなくて。
「止まっているエスカレーターを昇ろうとするとき、なんかつんのめるんだけど。」
この、脳が錯覚を起こしている
「壊れたエスカレーター現象」と似たような感覚です。
例えがわかりにくいわ!(笑)
どの辺りから、アルジュナの意識のレベルに私の意識は置き去りにされだしたの〜?!
それは、もう最初っから。(笑)
まだアルジュナとの意識のズレは補正されていないようです……
いきなり3つのグナを超越するようなズルはできないので、まずはグナの最適化をはからないと。
ただいま、グナ最適化キャンペーン実施中!!
\(^o^)/
因みに、
「壊れたエスカレーター現象」は、
後ろ姿が美しい女性が振り返るとそうでもなかったときに男性が怒りを覚える、
ときと同じ脳の誤作動だそうです。(笑)
わかりにくい例えを、さらにひっぱるよね〜。
いつも本当にありがとうございます。
かなりいいところに気が付きましたね。
>かなりいいところに気が付きましたね。
とは、
「どの辺りから、アルジュナの意識のレベルに私の意識は置き去りにされだしたの〜?!
それは、もう最初っから。」
ここの部分のことですか?(笑)
アルジュナの前はジャーナカ王のものだった。
というところから、
「ヨーガ・ヴァーシシュタ」のジャナカ王の
物語へ。この物語が好きです。
ジャナカ王の独白に、
「そう、そう、こう思っちゃうよね。」と
思わずホっとしてしまいます。
世間的には「情緒ヤバい人」「こじらせ系」に、うっかりされてしまいそうな考えかも(笑)
この物語と、
ギーター4章18節の
「行動の中に無行動を見る者、無行動の中に行動を見る者」とが重なります。
そうして、ふと気づきました。
弓をまず、自分に向けて後方にギューっと引き絞った状態で止める動作①が
「無行動」にあたり、
その状態からあとは前方に狙いを定め、
指を離して矢を放つだけの動作②が
「行動」にあたるのかな、と。
まず瞑想で内側に向かい、永遠不滅の静寂を保つ不動の領域に在る状態を確立して(①)、
その後その境地を自覚しながら、外側に向けて行動する(②)。
「弓を射る行為」と「行動と無行動」とが重なったような。(/・ω・)/
このような行動の仕方は、先生の解説にある、
「心の平静さを保ちながら安らぎのある深い意識の中で物事を行う場合、効率よく成し遂げることができる」(2巻p202)
ということなのですね。
そして、行動によるカルマの束縛も受けないのねー。
行動と無行動はワンセットで平常運用すべし!
あぁぁぁ……おそろしく難易度高いわっ。
いつも本当にありがとうございます。