続きです。
クリシュナは、
ここでアルジュナのことを
「bhaktah(信愛する者、帰依する者)」
と
「sakha(友)」
と同時に読んでいます。
ここでアルジュナのことを
「bhaktah(信愛する者、帰依する者)」
と
「sakha(友)」
と同時に読んでいます。
これは、
クリシュナ(神)は
本質的にすべての存在が
上下関係も無く差別なども無いことを示しています。
クリシュナ(神)は
本質的にすべての存在が
上下関係も無く差別なども無いことを示しています。
この二つの言葉を並べることによって、
クリシュナは、
自らを
相対的な立場に立脚していない
という立場を明確に示しています。
クリシュナは、
自らを
相対的な立場に立脚していない
という立場を明確に示しています。
この世界では、
心と対象は
相対する関係となります。
目の前に対象があれば、
その瞬間から
心が動きます。
心が
ほんの少しでも動けば、
心と対象との間に距離が発生し、
分離感、分別感が起こります。
心と対象は
相対する関係となります。
目の前に対象があれば、
その瞬間から
心が動きます。
心が
ほんの少しでも動けば、
心と対象との間に距離が発生し、
分離感、分別感が起こります。
この分別が起こる過程で、
私たちの経験や知識などが加わり、
対象が脚色されて
心に入ります。
私たちの経験や知識などが加わり、
対象が脚色されて
心に入ります。
すると、
心の中には
その脚色された対象に対して
何らかの欲が生じます。
心の中には
その脚色された対象に対して
何らかの欲が生じます。
こうして
この物質世界では、
実在と離れた仮想現実が創られていきます。
これを
分別
と称します。
この物質世界では、
実在と離れた仮想現実が創られていきます。
これを
分別
と称します。
私たちは、
普段から
何を見ても誰と会っても、
論理的思考に基づく分別心を持って
あらゆるものを考えます。
私たちは
幼少からの教育の時点で、
試験の点数による順位や偏差値による分類、
運動会でもスポーツでも優劣を競う合う
という分別が当たり前であるかのような意識が作られています。
仏教では、
この環境や教育によって培った
自然の理から外れた見解も、
煩悩としてみなします。
普段から
何を見ても誰と会っても、
論理的思考に基づく分別心を持って
あらゆるものを考えます。
私たちは
幼少からの教育の時点で、
試験の点数による順位や偏差値による分類、
運動会でもスポーツでも優劣を競う合う
という分別が当たり前であるかのような意識が作られています。
仏教では、
この環境や教育によって培った
自然の理から外れた見解も、
煩悩としてみなします。
分別心があるうちは、
どんなにすべてを平等に見ても、
差別なく扱っても、
本当の平等とは言えません。
どんなにすべてを平等に見ても、
差別なく扱っても、
本当の平等とは言えません。
自分の立場を持っていること自体が、
すでに偏っているからです。
人はどの立場にいても、
他の立場は
比較対象となり、
そこに
差別(ちなみに仏教ではシャベツと読みます)
が生まれます。
すでに偏っているからです。
人はどの立場にいても、
他の立場は
比較対象となり、
そこに
差別(ちなみに仏教ではシャベツと読みます)
が生まれます。
コメント
コメント一覧
私は、スライサーで、指まで削ってしまって、家事は止めて、お使いに出ました。
気になっていたお店が、12月で閉店の張り紙。日用品のお店で昔からの良いものを置いていますが、問屋さんから入らなくなっているとのことでした。100均での、購入が多いのですが、こちらでスライサーとかホーロー製品、その他色々、購入したら、菜箸をふたつプレゼントされました。
家に帰り、ご本が包装、熨斗なしなのでこのお箸を新築祝いとして、一つを綺麗に包装して、彼女に差し上げましょうと、考えました。
そしたら、今朝、三尺三寸箸の話を思い出して、そういう事なのか、と思ってしまいました。彼女にこのお話をしなくてはと、思いましたが、それ以外にも、私へのメッセージかもとか、色々浮かびましたが、
でも、でも、今日のお話しは、もう、そんな段階をはるかに超えたお話しでした。
そもそもひとつのもので、ただ表面的に別々にみえているだけならば、道は開ける。
まるで電気のお話みたいです。電圧、電流、磁気、磁極、回転…
意識をどちらに向けるのか。
「何を創っているのでしょうか?」というクイズ番組。その工程を追う、工場の映像を眺めてる感覚。
そこに「私のもの」という一体感が無いとき、それはただ起こっている。
内で起こるそれを、ただ眺めてる。
正転、逆転、観自在。
自問(文)の解が、こちらに有りました。
やはり
分別のない
差別のない
相対的立場に立脚できる
のは神なればこそ
それを踏まえた上で
神人合一(の境地)を目指す
(目指せよ=この御本を手にした者とあらば)が良かろうということなのでしょう。
(瞬間しかないと認識不可)
このように、
時間と空間の概念を媒体として、観念的現象が認識される。
宇宙とは、宇=空間 宙=時間 の織りなす幻想世界。
問題なのは、
時間の認識があることで、観念的に過去と未来が発生し、今に居なくなってしまうことです。
想念が過去の記憶と未来の期待にばかりいっています。今に全てが在るというのに。
神道でも「中今」といい、
今という瞬間に、過去、現在、未来の全てがたたみ込まれて、同時に存在していると。
±ゼロがマイナスとプラス、陰と陽を同時に含むように。
最近の私の最大の関心は、もっぱら
如何にして、想念=心の制御をするか?にあります。
ただ静かに在りたいです……。・ω・
私の愛読書「君が代」に、
「新しい世界は、時間と空間の概念がなくなる実在の世界に戻る」とありました。
時間と空間の不在の世界を時空間の観念の中にいながら思い描くことはできないのですが、どんな世界なのでしょう……
「四の中からは本当の八は理解できない。」
この言葉にはシビレました。
因みに……
>「君が代」続編もありますが、リクエストが無いため出版できるかどうかはまだわかりません。
と過去記事にありました。
リクエストが必要ならば是非お願いしたいです。m(__)m
いつの日か、ご縁ができることを心待ちにしております。(о´∀`о)