続きです。
人は、
すべての立場から離れた境地に立って初めて、
完全な平等感を持つことになります。
すべての立場から離れた境地に立って初めて、
完全な平等感を持つことになります。
釈迦大師は、次のように述べています。
「人は、
自らが立つ場から自らを考え量り、
それが論争に至る。
すべての論理的偏見を捨てた境地に至れば、
人は世の中で確執を起こすことは無くなる。」
「スッタニパータ」
自らが立つ場から自らを考え量り、
それが論争に至る。
すべての論理的偏見を捨てた境地に至れば、
人は世の中で確執を起こすことは無くなる。」
「スッタニパータ」
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「師を犬のように扱えば、
師の教えは犬の糞のようなものであり、
師を友人として扱えば、
その教えはよきアドバイスとなる。
さらに
師を尊い者として扱えば、
その教えは貴重な真理となる。」
このチベットのことわざ通り、
師は、
師を尊い者として帰依した人にだけ、
貴重な教えを授けるのです。
つまり
受け取る準備が出来た者、
受け取る意志がある者だけに与えられる、
ということです。
師の教えは犬の糞のようなものであり、
師を友人として扱えば、
その教えはよきアドバイスとなる。
さらに
師を尊い者として扱えば、
その教えは貴重な真理となる。」
このチベットのことわざ通り、
師は、
師を尊い者として帰依した人にだけ、
貴重な教えを授けるのです。
つまり
受け取る準備が出来た者、
受け取る意志がある者だけに与えられる、
ということです。
アルジュナは、
すでにこの時点で
完全にクリシュナに帰依する者となって、
クリシュナから授けられた叡智を
次々と自分の智慧に変えていくことになります。
すでにこの時点で
完全にクリシュナに帰依する者となって、
クリシュナから授けられた叡智を
次々と自分の智慧に変えていくことになります。
クリシュナが、
bhaktah(信愛する者、帰依する者)
と
sakha(友)
を並べた時点で、
差別も平等も無い
「無為」の境地、
本性の平等という境地
から語っていることを先ほど書きました。
bhaktah(信愛する者、帰依する者)
と
sakha(友)
を並べた時点で、
差別も平等も無い
「無為」の境地、
本性の平等という境地
から語っていることを先ほど書きました。
では、
クリシュナのように本性の平等、
つまり
「無為の境地」に至るには、
どうしたら良いのでしょう。
クリシュナのように本性の平等、
つまり
「無為の境地」に至るには、
どうしたら良いのでしょう。
それは
先ほどの分別心の発生機序を見れば
わかることです。
分別心は、
心を外側の世界に向け続けることにより、
発生し、
強まっていきます。
だから、
内的探求をしっかりと行うと同時に、
外側の世界が内的世界探求のための投影だと見抜いて、
体験を続けていくことです。
先ほどの分別心の発生機序を見れば
わかることです。
分別心は、
心を外側の世界に向け続けることにより、
発生し、
強まっていきます。
だから、
内的探求をしっかりと行うと同時に、
外側の世界が内的世界探求のための投影だと見抜いて、
体験を続けていくことです。
それにより、
幻想(マーヤ)に囚われて、
執着を起こし、
欲望が強まっていく
という悪循環を防ぐことが出来るようになります。
幻想(マーヤ)に囚われて、
執着を起こし、
欲望が強まっていく
という悪循環を防ぐことが出来るようになります。
人が、
幻想(マーヤ)の世界から
簡単に無為の境地に至ることが出来ないのは、
この分別心から逃れることが
困難だからです。
幻想(マーヤ)の世界から
簡単に無為の境地に至ることが出来ないのは、
この分別心から逃れることが
困難だからです。
「自分の心を客観視するのであれば、幻でない法も幻法となる。」「首楞厳経」(しゅりょうごんきょう)
「心は好画師の如く、種々の五蘊を造る。」「華厳経」
「私たちの最初の師は、自分の心の中に在る。」北米千住民シャイアン族の言葉
次は第四節ですが、
脱落者が多すぎるため
ちょっと小休止しましょうか。
アルジュナ
「あなたの誕生は後であり、ヴィヴァスヴァットの誕生は前である。あなたが最初にこれを語ったとは、どのように理解したらよいのか。(四)」
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コメント
コメント一覧
という事でしょうか?
大自然でいただくお茶ってとんでもなく美味しそうです。
ここで師からの薫陶というご馳走も常にいただいています。
いつもありがとうございますm(_ _)m
平等かと思いきや、それをも超えた平等。
立場を持つことで差別が生まれるが故に、それを超えた立場に至るとは、一見矛盾しているようにさえ感じます。
誕生の後先を問うであれば、そこには時間があり、更には因果という法則がある。生まれたときからその中で育った私は、存在がある以上、それを生み出したものがいるという観念を当然のこととして持つ。
ヴィヴァスヴァット=対象を持たない境地とすれば、その因果の法則を内包しつつも、その影響の外側に在る。後も先も、無いということになる。
無いは、想起出来ない。出来た段階で「無い」という概念が「在る」からだ。そこには認識するという対象を持った意識が存在する。
観るものでも、観られるものでもない。
形を持たない感覚さえも認識し続ける働きは、止むことがない。求めることでしか始まらず、至る先に至るには、それが最大の障壁となる。存在という認識は、行為ではあり得ない。
「誰が」を問う。「認識」のみが在る。
単に仕組み、働きかけとしてその落差を眺めていると、現れ続ける流れに行着く。
その畔で観つめていたと気付いたときは、もう対象としてのそれの中にいる。「いる」から「在る」へ。日々の瞑想で、それを繰り返してる。
分からないことばかり。だから、今はそれを繰り返してる。神という働きは、意識しようがしまいが、現れ続けてる。
言葉は不自由ですね。
私が不案内なだけか。
着いて行けてますか?夢中で追いかけています。今日もありがとうございます。
院長婦人、東大卒とか、極力、隠しとおした友人がいます。知っている人には、かん口令。
でも、これは、妬みとか、それを避けたかったのかなとか、それで近づく人とかも、私は、先入観で、近寄り難かったかなとか。それはなくても、話す内容が違っていたかもしれません。
先入観なしの、お付き合いは素の自分を、別の角度、周りから、知り、学びになりそうです。
隠す必要が何もない私は、気楽ですが、その分、きめ細やかさに欠けているかもです。
最近、気付きました。
やり続けてみると、毎日同じ朝日はないことにも、感動しています。地平線から浮かぶ朝日を見たのは3日だけでした。1日は雨。あとの日は曇りで、深い雲が垂れ込めていて。
その雲の中から、ぽっかり朝日が見えたり、雲の筋の中に明るい光が見え隠れしていたり・・・この垂れ込めた雲の中にいる太陽は、真我なんだなあ〜とよく思いました。
夜と朝が混じり、朝日の登る少し前あたりに街灯が消えて、マンションの部屋部屋の明かりも消えます。
その時間、物質的なものと、自然のものとが
やっと合わさった感がします。
色の移り変わりは殊更に美しくて、闇の中に深紅と深い深い藍色が美しい筋になって現れて、まず周りから深紅に染まり明るくなってきて、そうしてやっと太陽がずわっ、ピカッと煌きながら姿を現します。
教わらなければ、こんな毎日は無かったでしょう。
先生、ありがとうございます🥰
どのように理解するのかな?と自分に問われているような気もします。
太陽神☀️の普遍なこと、太陽神の普遍の智慧などについて再確認する節なのでは、と思います。
この四節でアリジュナは太陽神に「patan・・年上の」
という意味の言葉を使い
クリシュナに「aparam・・年下の」という言葉を使っていることから、上下関係があり、時間軸もある中で、相対的に見て質問している。
それに相反してクリシュナは第3節で
「bhaktah…信愛する者、帰依する者」
「sakha…友」とアリジュナに呼びかけていて、上下関係も差別もないことを表している。時空を超えた領域のことを伝えようとしてくれている。
これから、さらに詳しく、深く普遍意識についてクリシュナが語り、学んでいくのだと思います。
体験を続けていきます。ありがとうございます。
私たちは外側に導いてくれる師がいて、目に見えるなど五感で感じられる世界にも導き、ヒントがあり(なぜか最近よくゾロ目の数字をとにかくよく見ます。)なにより自分の中に大いなる存在の分け御霊である師がある!そのことにどれだけ勇気づけられ大事にしようと思えるでしょうか。
内側の師への旅をひたすら進んでいきたいと思います。
>すべての立場から離れた境地に立って初めて、
完全な平等感を持つ
森井先生の持つ平等感はここから来るのですね。これもまたひとつ目指したいところになりました。(先は長そうですが)
>外側の世界が内的世界探求のための投影だと見抜いて
そうですね。起こるべくして起こっていることですね。理由があり、それを乗り越えるために起こっていることですね。
外の世界が幻想(マーヤ)であるということは多くの賢者が伝えていることですが、それを本当に理解するのにはもう少し時間がかかりそうです。
* 第四節は、この時点でアルジュナはクリシュナがただならぬ存在だということを感じてきて、クリシュナに帰依し気高いアルジュナではありますが、もっと霊性を高める旅へ行くことを決意したと思います。
ゆえにクリシュナは何者か?ヴィヴァスヴァット(太陽神)に語ったということはどういうことなのかの疑問に答えてもらうことと、自分で言葉にすることで、自分の進むべき道への推進力にしようとしているのではないかと感じました。
当たっているとか間違っているかが問題ではないのですよね?内観してどう感じたかがシェアの目的ですよね?
話はそれますが、わたしはまれに自分が話しているのではないような感覚で自分の深いところから言葉が出てくる時があります。その時に出てくる言葉は間違いないと感じるのです。
先を急ぐトラック
イラっとしている自分
ああ!
無為(の境地)に至ることが、困難であることは自明の理と言えましょう。
神(としての側)からすれば、
無為(仏教的に云うところの涅槃)が素晴らしく、求め、至るべきところであるのでしょう‥‥
それは、紛れもない真実であろうと私も同意致します。
なれど、有為を敢えて体験するために志願して降り立った地球であることも嘘ではないとも、どこかで実感しています。
今生の生を終えた時、無為へと回帰はならぬものでなければ、今こうして
聖典を学ぶ価値が問われることともなりましょう。
有為の人生を生き切るのみでは
無為の世界ヘ帰還することは
かなわぬのでありましょうか。
先日鬼籍に入られた寂聴尼でいらしてさへも、無為には至られておられぬのでしょうか?
‥‥などと至らぬ想いを巡らわせずにはいられない
聖典の問いかけを頂いています。
時空次元では、太陽光は地球に届くまで8分かかるといわれています。
時空を超えた次元を思い出すという私の方法ですが、8分前の光に照らされながら、太陽の光が放射される瞬間を瞑想すると得やすいです。太陽の、光を発する意志のようなものを感じるのです。子どものころから、陽光にあたっていると遠い記憶を思い出すような感覚を覚えてましたので。
みなさんすばらしいコメント。問いを持てば持つほど答えが得られ、明らかになっていきますね。
物事を習う時に大事なことは誰に習うかということです。
ここでアルジュナはクリシュナがどういう存在かということを問うています。
クリシュナは真我であると同時に太古からの叡智を正しく伝える者です。
アルジュナと自分を同列に置くのは大変おこがましいことですが、森井先生のギータの解説を心が栄養を得るように
読んでいるわたしや他の読者の皆様がだぶって感じられます。
森井先生は遥かな険しいお山の上で高次元存在から伝えられたことを正しく私たちに教えてくださっています。
人々を覚醒させるためにこの世に降りてきたとも思える方から叡智を受け取ることができるなぞ、他に考えられません。
いつもありがとうございます。