賢者たちは、
その根底にある土台と活動の本質が、
心であれ
体であれ、
同じものであることを理解しています。
その根底にある土台と活動の本質が、
心であれ
体であれ、
同じものであることを理解しています。
どちらの道を選ぶかは、
基本的には
自分の資質、特性、状況
などに応じて
決めることができます。
基本的には
自分の資質、特性、状況
などに応じて
決めることができます。
智慧の道を選んだ者の
「働き」
に関する釈迦大師の逸話があります。
「働き」
に関する釈迦大師の逸話があります。
ある日、
釈迦大師が
弟子たちを連れて、托鉢に出掛けられた時のこと。
托鉢は
食ベ物などの御布施を鉢に受けることを通して、
多くの人たちと
縁を結ぶ行為です。
釈迦大師が
弟子たちを連れて、托鉢に出掛けられた時のこと。
托鉢は
食ベ物などの御布施を鉢に受けることを通して、
多くの人たちと
縁を結ぶ行為です。
大師たち一行が訪れた村では、
農夫たちが汗だくになりながら
牛を操って、
鋤や鍬で田畑を耕していました。
農夫たちは、
毎日朝から夕方まで、
重労働もいとわず
一生懸命に大地と向き合い仕事をしていました。
農夫たちが汗だくになりながら
牛を操って、
鋤や鍬で田畑を耕していました。
農夫たちは、
毎日朝から夕方まで、
重労働もいとわず
一生懸命に大地と向き合い仕事をしていました。
釈迦大師とその弟子たちは托鉢を行うために、
たくさんの農夫たちが一仕事を終えて集まり、
食事をしているところに向かいました。
たくさんの農夫たちが一仕事を終えて集まり、
食事をしているところに向かいました。
鉢を持って
農夫たちの元に立たれた釈迦大師に、
農夫の頭らしい男が立ち上がって、
からかうように言いました。
農夫たちの元に立たれた釈迦大師に、
農夫の頭らしい男が立ち上がって、
からかうように言いました。
「あんたは、働き盛りの若者たちを大勢連れ歩き、
俺らが汗水たらして育てた農作物を物乞いしたり、
訳の分からぬ説法ばかりしとる。
そんなことしとらんで、
自分で田畑を耕して、
米や野菜を作ったらどうだ?
俺らは、
難しいことはわからんが、
自分で働いて、
自分でちゃんと食っとるぞ。」
俺らが汗水たらして育てた農作物を物乞いしたり、
訳の分からぬ説法ばかりしとる。
そんなことしとらんで、
自分で田畑を耕して、
米や野菜を作ったらどうだ?
俺らは、
難しいことはわからんが、
自分で働いて、
自分でちゃんと食っとるぞ。」
農夫の言葉からは、
毎日肉体を酷使して働き続けて
農作物を生産していることへの自負と
その農作物を肉体労働もせずに
施しによってもらい受ける働き盛りの修行者たちへの軽蔑の気持ちが感じられました。
毎日肉体を酷使して働き続けて
農作物を生産していることへの自負と
その農作物を肉体労働もせずに
施しによってもらい受ける働き盛りの修行者たちへの軽蔑の気持ちが感じられました。
農夫の言うことを静かに聴いていた釈迦大師は、
次のように答えました。
・・・・・・
・・・
よく考えていただくために次のように答えました。
・・・・・・
・・・
続きは
第五巻まで
待ってもらおうか
.。゚+.(・∀・)゚+.゚
次は
「知識の行者(ジュニャーナ・ヨーギ)が到達する境地には、行動の行者(カルマ・ヨーギ)も到達する。知識のヨーガと行動のヨーガを同一視する者は、正しく見ている。(五)」

コメント
コメント一覧
釈迦大師の御言葉が氣になります( i _ i )
よく考え内観しておきます。
でももしできましたら…
今日も心からありがとうございます。
近いうちに発売になるかと思います。
その、農夫が、行動のヨーガが出来ている場合は、働ける喜び、感謝の心になっていたら、気持ち良く、分け与えることができるでしょうに。
でも、渋々でも与えるという行動ができたなら、与える喜びを知り、受け取った側の感謝の心を、感じ取り、自分の中に、感謝、喜びが生まれて、次の段階へと、行くのでしょう。
その気にさせる、釈迦大使の言葉、具体的には、浮かびませんが、まず、その農夫の言葉を受け入れ、そして、その行動を起こさせる言葉、どんな、言葉になるのでしょうか?
ちなみに、それを、頭で、農夫を次の次元へ、等と考えていては、動かすことはできません。
受け取る側の心からの、感謝?愛?…その他、思い浮かびませんが、
もしかして、弟子に向かって、言葉を発する?
乞食という言葉、子供の頃、聞いたことがありますが、見たことはあるかも?ないかも?。お米をを?
田舎で反物や、着物を持って、行商の人がきましたが、おとうさん、あの人、ご主人が事故(病気)で、亡くなっているんだって、もっと買ってあげなきゃ~見たいに言ってる母を覚えています。
家にきて駅前の自転車を、これじゃ、歩くのに邪魔になると、目の前のを、並び替えたり、
そんな、考えの、(田舎の)人が、今、犠牲になっている社会状況な気がします。
智慧のある、日本人は、智慧を働かせなければと思います。
(追いついてない一人です・・・でも、お彼岸の時、周りのエネルギーが変わるのでよく翻弄されていたのですが、今年は森井先生がおっしゃった七日間ミッションを見て、流れがわかって、息をつきながら必要なことに取り組めたおかげで、無駄な混乱を起こさなかったように感じてます。今はまた、低いエネルギー回路の鎖を切って、高いエネルギー回路に移っていく部分があって、そちらをやっています。
山とハートの雪玉のお写真で、とても癒されていましたm(_ _)m
雪玉作成機、大小二つを使いこなされてるなぁ・・・うふふふ・・・と緩んでました。)
自分で
生きて行くことはとても尊いと思います。
それができるのは
身体を貸して頂いている
存在のお陰。
その存在に感謝し
喜び生きていく
そうなるように
心を耕す
そう導くのも
尊いのだと感じます。
やはり学びの深さの違いの現れとして出てきた言動であるかと思います
目先の利益だけに拘って
何事も損得勘定をもとにして
他者を顧みず
自ずと全ての繋がりを感じ取っていないからこそ
深く尊き托鉢僧に対して抱いた想念と浴びせた言葉であると思います
マザーアースガイアの御恵を搾取するだけで
ややもすれば自然を征服しようと試みかねない類の者ではなかろうかとさへ
少々寂しい気持ちにもなります
こうした者たちのためにも
釈迦大師(さま)方々は托鉢に出向き
宇宙の叡智を学ぶためのご縁繋留をなさっているのではと思います
(農夫が)ありがとうございますと
ご喜捨で托鉢僧を迎え入れた時に
(その農夫の)心の中にしあわせがもたらされるのであろうと思われます
釈迦大師が何と仰ったとされているかは
お恥ずかしながら存じませんが
「御仏(さま)があなた(農夫)のこころざし(お布施)を尊きものとして、およろこびになられますでしょう」
的なニュアンスのお言葉をお掛けくださることもあったであろうかとも‥‥
現在の私では
どのような言葉掛けが宇宙の叡智を伝えるべくして最適であるのかを測り知ることなりません
感謝✨🙏💞
私は到底お釈迦さまのようにはなれないのですが、
もし私だったら…で考えてみました。
目には目の働きがあって口が代わりにその仕事をすることはできない。
同じように耳には耳の働きがある。
花には花の、子どもには子どもの、
お医者さんにはお医者さんの、
そして農夫には農夫のお役目があって
それは代わりにはできない。
では私に何ができるかというと
ただただ感謝し、それを伝えることだけ。
それぞれ天から与えられたお役目をまっとうすれば、
とても素敵な世界になるでしょうね。✨✨✨
同じ「働き」として「認識」されている
にもかかわらず、それを区別している
ものは何でしょう?
「行動」と「智慧」を喩えるならば、「肉体」と「心」と言えるかも知れません。
肉体を持った個としての私に主軸を置いて語ることと、私という自我を超えた意識に主軸を置いて語ること。
「誰が」「何を」「いつ」「何処で」「どうした」
これらに共通し、背後に潜むものは、「私」という存在認識。
耕すとは、土(肉体)のみにあらず、
作物を実らせる慈雨とは、土(肉体:私のもの)という執着を手放し、育み、分け与える豊かさへと向かう意識の象徴。
五感として認識される物を通して観じられる、不可視の内面的「働き」
どちらかでは「認識」出来ず、対象として認識することから生まれる表裏一体の働きを、引き離すことは出来ない。
肉体としての私と、無限の魂としての私。
それらを同時に認識する認識。
あらゆるものを内包し続ける働きが、ただ在り続けてる。
托鉢とは、心を耕し、受けとる側も与える側も、私という肉体的な自我を超えた働きの中にあることに気付き合える機会。
農夫が僧侶に見たものは、自らの執着。
言葉で語ることで、それに気付かせることは出来ない。
私という認識の主軸を、何処に置くのか。
あらゆるものを内包する視座に、自らを留めておくことの鍛錬。