今夜は中秋の名月ですね。
写真を撮ったら
月の中に
飛行機が写っていました。
旧暦では
七-八-九月が秋であり
仲秋は八月のことを示しています。
七月は初秋、八月は仲秋、九月は晩秋と呼んでいました。
旧暦八月十五日の月は
「仲秋の名月」または「中秋の名月」と呼びます。
十五夜とは
新月の日から数えて十五日目の夜のことです。
私たちはまだ
月の
本当の力を理解していません。
宇宙に拡がる星の配置の秘密を
月が
持っていることすら
知られていません。
日々忙しく過ごす人にとって
普段はなかなか月を見上げる機会が無くなっていると思います。
中秋の名月は
ゆっくりとお月見をして、
月と自分の心を照らし合せてみませんか?
今日もありがとうございます。
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写真を撮ったら
月の中に
飛行機が写っていました。
旧暦では
七-八-九月が秋であり
仲秋は八月のことを示しています。
七月は初秋、八月は仲秋、九月は晩秋と呼んでいました。
旧暦八月十五日の月は
「仲秋の名月」または「中秋の名月」と呼びます。
十五夜とは
新月の日から数えて十五日目の夜のことです。
お月見といえば
ススキと共に月を愛でますよね。
ススキと共に月を愛でますよね。
ススキは、
古来から家の茅葺屋根の材料として必須不可欠な物で、
どこの村にも
ススキ野がありました。
中秋の名月には
本当は実った稲穂と共に
月を愛でたかったものの、
旧暦では
まだ
稲穂は実る時期ではありませんでした。
そこで、
シルエットが似ているススキで代用したのだそうです。
ススキには、
邪気を祓う力があるとされ
神の依り代としても高貴な扱いをされてきた植物です。
お月見に使われたススキを
捨てないで、
軒先に吊るしておく風習の在る地域もあります。
古来から家の茅葺屋根の材料として必須不可欠な物で、
どこの村にも
ススキ野がありました。
中秋の名月には
本当は実った稲穂と共に
月を愛でたかったものの、
旧暦では
まだ
稲穂は実る時期ではありませんでした。
そこで、
シルエットが似ているススキで代用したのだそうです。
ススキには、
邪気を祓う力があるとされ
神の依り代としても高貴な扱いをされてきた植物です。
お月見に使われたススキを
捨てないで、
軒先に吊るしておく風習の在る地域もあります。
「月移し」
ってご存知でしょうか?
小さな器に、
水や御神酒を入れて、
そこに
月を映して
愛でながら
願いを込めます。
ってご存知でしょうか?
小さな器に、
水や御神酒を入れて、
そこに
月を映して
愛でながら
願いを込めます。
そして、
その水を飲み、
身体中のすべての細胞にまで行き渡らせるのです。
この方法は、
その願いが
素直で純粋、
自然の摂理に叶ったものであれば、
とても効果的な方法です。
心の構成要素であるチッタにまで到達するからです。
その水を飲み、
身体中のすべての細胞にまで行き渡らせるのです。
この方法は、
その願いが
素直で純粋、
自然の摂理に叶ったものであれば、
とても効果的な方法です。
心の構成要素であるチッタにまで到達するからです。
私たちはまだ
月の
本当の力を理解していません。
宇宙に拡がる星の配置の秘密を
月が
持っていることすら
知られていません。
日々忙しく過ごす人にとって
普段はなかなか月を見上げる機会が無くなっていると思います。
中秋の名月は
ゆっくりとお月見をして、
月と自分の心を照らし合せてみませんか?
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コメント
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空にはお月さま。
昔、テニスコートだった広場は
適度に暗く、空がよく見える。
夜には誰もいないから、星空を見るには
もってこいの場所。しばし、佇む。
帰宅し、食事を済ませ
湯飲みに水を満たして、二階のベランダへ。
ベランダから屋根の上に出て、
南の空に中秋の名月。
しばらく眺め、対話する。
誰と話してるんだろ?
「月移し」やってみる。
あってる?わからない。
隣のお家からは、何かを応援する声。
ラグビー?野球?わからない。
よくわからないけど、お月さまは
とても綺麗で、今が心地よいことだけは
よくわかる。それでいい。それがいい。
お月さまを眺めてると
心の中が、驚くほど静かで
私という意識と真っ直ぐに向き合える。
これからは、時々屋根の上で
瞑想してみよう。
あー、頭がぼーっとしてる。
神社の拝殿で瞑想(座禅)をはじめた。
(今までも神社には行ってましたが、
拝殿手前での立禅でした。)
日の出前、鳥たちが鳴き始め
空気が大きく動きはじめる。
気持ちいい。
目を閉じると、色々な思考が湧いてくる。
それが消えたとき、何かが起こるのだと
以前は思ってたけど、思考は止むことはない。
今は、森井先生の神の詩にあるように、
その思考をガイド(種火)として、向かう
方向を整え、迎え入れるようになり
湧き起こる思考や感情を、ギフトのように
受け取ることが出来はじめてる。
ふと、理由なく笑みが溢れ
「幸せだなぁ…」という一人言が
口から出て来たのに驚いてる自分がいる。
勝手にしゃべってる…?
神社と瞑想がひとつになって
しかれば知るほど、神社ってよく
出来てるんだなぁ…と感心する。
不幸や悩みが消えたとき、幸せがやってくる
のだと思ってたけど、不幸な悩みの種(理由)が
あっても、幸せであってもいいのだと
思うようになってる自分がいる。
個としての私がいて、
同時に全体としての私もいる。
そのままで、今のままで
活かされてて、すべてが相まって
益へと導かれてる。
そんな、大丈夫な私の中にいる時間が
少しずつ伸びてる。
不思議な光も、神さまの声も聴こえないけど
毎日のコツコツ継続する瞑想は
大丈夫な私でいられる時間を
確実に伸ばしてくれてる。
ありがたいな。
ありがたくなくても、ありがたい。
完全なものって、知ることも見ることも
聴くことも出来ないのかも知れない。
わからない今の私は、それでいいのかも
知れないと思う、今朝の瞑想。